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LRGライブラリー・リソース・ガイド 第2号/2013年 冬号
Library Resource Guide
ISSN 2187-4115
図書館システムの現在
特集 嶋田綾子(データ協力:株式会社カーリル)
知の機会不平等を解消する
ために ──何から始めればよいのか
特別寄稿 みわよしこ
発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社
LRG Library Resource Guide
ライブラリー・リソース・ガイド 第2号/2013年 冬号
発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社
図書館システムの現在
特集 嶋田綾子(データ協力:株式会社カーリル)
知の機会不平等を
解消するために
──何から始めればよいのか
特別寄稿 みわよしこ
巻頭言 ライブラリー・リソース ・ ガ イ ド   2 0 1 3 年 冬 号
巻頭言
図書館をより開かれた存在にするために
 『ライブラリー・リソース・ガイド』第 2 号を刊行することができました。これも
ひとえに、創刊号が無事に船出できたことによるものです。創刊号をお買い上げい
ただいたすべての方々に、心から感謝申し上げます。
さて、第 2 号は、
● 特別寄稿「『知』の機会不平等を解消するために――何から始めればよいのか」
 (みわよしこ)
● 特集「図書館システムの現在」(嶋田綾子、データ協力:株式会社カーリル)
という 2 本立てとなっています。
 みわよしこさんは、フリーのライターとして多方面で活躍されていますが、大き
な反響を呼んだダイヤモンド・オンラインでの連載「生活保護のリアル」(2012 年
6 月∼ 12 月)で、ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 図書館、特に公共図書館は、だれに対しても開かれた存在であり、私たちが欲
したときに、知へのアクセスを保障する社会の仕組みの一つです。その精神は、た
とえば図書館法や社会教育法、ひいては日本国憲法にも読みとれます。しかし、本
当にこの国において、その精神が実体的なものになっていると言えるでしょうか。
図書館不要論も聞かれる時勢ではありますが、であればこそなおさら、いまここで
知へのアクセスの機会保障という議論と行動を考えてみたいと思います。
 一面においては、きわめて重い論考ですが、ここに示された一つの現実を受け
とめつつ、読みとおしていただければ、みなさんの眼前に新しい地平が広がってく
るはずです。
ラ イ ブ ラ リ ー ・ リソース・ガイド 2013 年 冬号 巻頭言
 特集「図書館システムの現在」は、日本最大の図書館検索を謳うカーリルの技
術協力により実現しました。あらためて、株式会社カーリルのみなさまに御礼申し
上げます。
 さて、この特集では、カーリルが保有する日本全国 6000 館以上の図書館システ
ムのデータを駆使し、図書館におけるシステムの導入状況を相当な正確さで把握で
きる内容になっています。従来、図書館システムの導入にあたっては、たとえば同
規模自治体での導入状況を把握することが難しく、言うなればシステム提供企業の
アドバイスに準じざるを得ない状況がありました。
 しかし、公的な機関が有する公共的なシステムのデータは、当然オープンである
べきです。おりしもオープンデータという言葉が世間をにぎわしつつあります。公共
的なデータの開放性や透明性を高めていくことで、たとえばこのような特集が可能
になるのです。こうした文脈も含めて、この特集をご理解ください。そして、この特
集が図書館システムのよりよい革新への一助となれば、幸いです。
編集兼発行人:岡本真
責任編集者:嶋田綾子
巻 頭 言 図書館をより開かれた存在にするために[岡本真]………………………………… 2
特別寄稿 「知」の機会不平等を解消するために
     ── 何から始めればよいのか[みわよしこ]……………………………………… 5
特  集 図書館システムの現在[嶋田綾子](データ協力:株式会社カーリル)……………………… 63
LRG CONTENTS
Library Resource Guide
ライブラリー・リソース・ガイド 第2号/2013年 冬号
[Case01] ベンダー別導入状況
[Case02] パッケージ別導入状況
[Case03] 公共図書館における導入状況
[Case04] 都道府県立図書館における導入状況
[Case05] 政令指定都市の公共図書館における導入状況
[Case06] 市立・区立図書館における導入状況
[Case07] 町立図書館における導入状況
[Case08] 村立図書館における導入状況
[Case09] 大学図書館における導入状況
[Case10] 専門図書館における導入状況
[Case11] 都道府県別ベンダーシェア
[Case12] 都道府県別パッケージシェア
[Case13] 図書館システムの変更パターン1
[Case14] 図書館システムの変更パターン2
[Case15] 図書館パッケージリスト
[Case16] 人口規模とベンダーシェアの関係
[Case17] 人口規模とパッケージシェアの関係
[Case18] 分館数とベンダーシェアの関係
[Case19] 分館数とパッケージシェアの関係
[Case20] 外国人人口の割合における導入状況
[Case21] 第1次産業就業者数と導入状況の関係
[Case22] 第2次産業就業者数と導入状況の関係
[Case23] 第3次産業従事者数と導入状況の関係
[Case24] 子どもの人口割合と導入状況の関係
[Case25] 生産人口と導入状況の関係
[Case26] 高齢者人口と導入状況の関係
[Case27] 市民の平均年齢と導入状況の関係
[Case28] 昼間人口と導入状況の関係
[Case29] 人口密度と導入状況の関係
[Case30] 財政力指数と導入状況の関係
全国の図書館における導入状況 ……… 65
自治体構造による導入状況 ……………… 97
カーリルのデータにみる図書館のすがた…129
カーリルのデータにみる『生活保護手帳』…145
[Case31] 都道府県ごとの図書館数
[Case32] 移動図書館数とその愛称
[Case33] 分館数の多い図書館
[Case34] 都道府県ごとの図書館密度(10平方キロメートル
あたりの図書館数)
[Case35] 都道府県ごとの図書館密度(人口10,000人あたり
の図書数)
[Case36] 館種別『生活保護手帳』の所蔵状況
[Case37] 都道府県別『生活保護手帳』(2011年度版)の所蔵
状況
[Case38] 都道府県別『生活保護手帳別冊問答集』(2011年度
版)の所蔵状況
[Case39] 都道府県別『生活保護手帳』(2012年度版)の所蔵
状況
[Case40] 都道府県別『生活保護手帳別冊問答集』(2012年度
版)の所蔵状況
カーリルラボ ─ 学術利用トライアル募集 … 156
次号予告 …………………………………… 158
みわよしこ
の機会不平等を
解消するために──知
何から始めれば
よいのか
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
本稿について
 本稿では最初に、日本に根深く存在する「知」の機会不平等が、半世紀近い過去にどの
ような問題であったかを、私自身の経験を通して描く。
 では、現在はどうであろうか? 結論から言うと、かつての深刻さは、ほとんど解決さ
れていない。その結果として何が起こっているかについて、いくつかの事実を提示する。
 最後に、この問題がどのように解決されるべきかについて述べる。一朝一夕に解決され
る見通しはない。しかし、解決されなくてはならないと思う。考えられるアプローチと「最
初の一歩」を、私なりに提案する。
みわよしこ(三輪佳子)
の機会不平等を
解消するために──知
何 始
よいのか
か めれ
ばら
フリーランス・ライター。1963年、福岡県生まれ。
大学院修士課程修了後、ICT技術者・企業研究者・専門学校教員などを経験しつつ、
著述業へとシフト。2013年4月、日本評論社より書籍『生活保護のリアル』を刊行予定。
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
プロローグ
 プロの書き手になろうと考えはじめたのは、5歳か6歳くらいの時期だった。昭和44年∼
45年(1969年∼1970年)ごろである。
 当時住んでいた地域は、福岡県筑紫郡春日町(当時・現在の福岡県春日市)。広大な農
村風景の中に孤島のように出現した新興住宅地の、真新しい、しかし典型的な「安普請」
の建売り住宅が、当時の住まいであった。福岡市中心部に出るために利用することのでき
るバス路線は3系統あったが、それを全部合わせても、一時間に1本あるかどうかだった。
福岡市中心部の企業に勤務するサラリーマンの父親と専業主婦の母親は、それほど不便な
場所に、やっと家を買うことができたのだった。
 私には4歳下の弟がいた。両親にとっては長男である。「長男を立派に育て上げる」が、
母親の目標であった。1歳になり、歩きはじめた弟は、手当たり次第にモノを掴んだり引
っ張ったり叩いたり投げたりした。それは、1歳児がふつうに取る行動であった。弟が手
や足で力を及ぼす対象の中には、私の身体や髪の毛などが含まれていた。私は、蹴られた
り叩かれたり髪を引っ張られたりした。しかし、痛いということを表情や声などに示すこ
とさえ許されなかった。母親によれば、それらは男の子が立派に育つためには必要な経験
なのであり、私は「お姉ちゃんだから」、痛いとか辛いとかイヤだとか思ってもならない
のであった。
 「自分の受けている扱いは、なんだかおかしい」という意識が、5歳の私には既にあった。
だから、早く手に職をつけて経済的自立を達成しなくては、と思っていた。しかし、その
地域で見つけることのできる女性の職業は、学校や幼稚園の教員、保育園の保母(当時)、
町役場の職員、農協や信用金庫の職員、看護婦(当時)。教育・公共・金融・医療以外で
女性が職業を得ようとするならば、商店や小規模企業を夫と共同経営するしかない。5歳
の私は、まだ「性差別」という言葉を知らなかったが、それらの女性の職業は、どの一つ
も、自分の抱えている問題から自分を解放してくれるようには見えなかった。
 その時期、私は、児童書や絵本の書き手に女性の名前があることに気づいた。松谷みよ
子。あまんきみこ。石井桃子。テレビドラマのオープニングを見ていると、「脚本」とい
う文字のそばにも女性の名前がある。橋田壽賀子。向田邦子。世の中には、本を「書く」
という仕事があり、そこには多数の女性の書き手がいるらしい。私も、なれるかもしれな
い。なれるんじゃないかな。きっとなれると思う……。
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
 小学校に入った私は、図書室にあった800冊あまりの本を、小学1年生の間に読み尽くし
た。「それも出来ないようでは、プロの書き手になどなれないだろう」と子ども心に思っ
たからだ。同時に、書くことに関するセルフトレーニングを開始した。作文では、子ども
離れした文章力で大人の舌を巻かせ、同時に「子どもらしくない」という評価を受けた。
10歳前後で、小説の習作を始めた。現在の私は、ほぼノンフィクションを専門としている
が、ノンフィクション・ドキュメンタリーの世界にも女性の書き手がいることには、まだ
気づいていなかった。中学時代には小説やシナリオのコンクールに応募したが、結果は出
せなかった。「原稿用紙300枚や500枚の文章を書くことができる」と自認できたことだけ
が収穫だった。その後、大学進学に際しては物理学を選択し、そのまま修士課程まで進学。
修了後は企業研究者となったが、間もなく、1990年代後半の所謂「血で血を洗うリストラ」
に巻き込まれた。
 1998年、私は企業研究者を続けながら、参入機会の多いICT系メディアで著述業を開始
した。2000年からは、著述業にほぼ専念している。主な守備範囲は科学・技術であったが、
2004年に運動障害のため歩行が困難になってからは、社会保障や福祉の問題に当事者とし
て直面することとなった(2007年に障害者手帳を取得。現在、屋外での移動には常時、電
動車椅子を利用している)。現在は、生活保護を中心とする社会保障・科学・技術の分野
にまたがる形で、著述活動を展開している。
「大人の本」へのアクセスを求めて∼小学校時代まで
 幼少期の私にとっての大きな課題の一つは、「本があって読むことのできる場所と状況
を確保する」であった。私が自発的に読み書きを行うことを、母親が好まなかったからだ。
私は子どもなりに知恵を絞り、全力で、「本のある安全なところ」へとアクセスする努力
を重ねてきた。
 幼稚園以前、私が本に接する機会は、幼稚園・同世代の子どものいる家・歯科医院や小
児科医院の待合室。これで全部であった。父親の本棚には、300冊ほどのビジネス書・流
行小説・画集(父親は絵画が趣味である)があった。当時の中産階級の父親の、典型的な
本棚であろう。しかし、それらの本を手にとって読むことは困難だった。この時期に読ん
だ本に、特に記憶に残っているものはない。唯一、はっきり覚えているのは、歯科医院の
待合室にあった婦人雑誌の料理記事である。ミルクゼリーとコーヒーゼリーが市松模様に
盛り合わせられているだけであったが、その幾何学的な美しさに、5歳の私は息を呑んだ。
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
ゼリーで、こんなことができるんだ!
 6歳になった私は、町立の小学校(当時)に就学した。急激な子ども人口の増大に伴い、
新設された小学校だった。図書館を設置する余裕はなく、半地下の小さな倉庫のような部
屋が「図書室」とされており、前述したように800冊ほどの書籍があった。
 7歳の時、私は結核に罹患した。幸い、ごく初期であり、咳などによって結核菌を外部
へと排出する段階には達していなかった。薬物療法のみで、1年ほどで完治した。母親の
強い希望で、私は小学校に通学を続けていたが、外で遊ぶことも運動も禁じられていた。
休み時間の居場所は、図書室しかなかった。私は、図書室の書籍を全部読み尽くしてしま
った。私が読むものに飢えていると知って、隣のおばさんが高校の国語の教科書をくれた。
高校を卒業した娘のものだった。現代国語・古文・漢文。教科書ガイドもついていた。私
は教科書ガイドを頼りに、古文も漢文も読めるようになった。石碑の碑文が、神社の社の
中に掲げられている額の文字が、意味のある何かとして目に飛び込んできはじめた。
 小学生時代の私は、大人のために作られた本を読む機会に飢えていた。将来プロの書き
手になりたい、古文も漢文も読めてしまう小学生にとって、子ども向けの本しかない小学
校の図書室は、何とも物足りないものであった。
 小学2年生の時、私が結核に罹患する少し前、住んでいた新興住宅地に公民館ができた。
そこには小さな図書室も作られた。大きな本棚があったけれども、住民が持ち寄った本が
200冊ほど置かれているだけで、閑散としていた。とにもかくにも、そこには大人向けの
本が置かれている。私は、公民館で開設される習字教室に参加し、公民館へのアクセス機
会を確保した。小学6年生の私は、その公民館の図書室で上原和『斑鳩の白い道の上に』
と出会い、歴史観の多様なありかたに激しい衝撃を受けた。どなたが寄贈されたものだろ
うか。今でも感謝している。
 遠い町からやってくる習字教師は、女性であった。そこにも、女性の職業人のモデルが
あった。私は習字にも熱心に取り組み、高校1年生で師範資格を取得して「飯の種にでき
るかもしれない何か」を手に入れたことに深い安心を覚えることになるのだが、それは先
のことである。
 そのころ、春日町は春日市となった。結核から回復した私は、毎日のように、母親にモ
ノサシなどでめった打ちにされたり、髪を引っ張られたり、冷たい床に何十分も正座させ
られたり、食事を与えられなかったりするようになった。
 小学校に図書館が出来たのは、小学4年生の時のことであった。採光のよい、広々とし
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
た図書館に、2000冊以上の蔵書があった。私はその新しい蔵書も、ほとんど読みつくした。
図書室時代から、図書担当の教諭たちの選書のセンスが光っていた、と今にして思う(図
書担当教諭のリーダー的存在だった佐伯先生、ありがとうございました)。身の回りのモ
ノや環境は、どのように成り立っているのか。小学校の窓から見える範囲だけでもいくつ
もある古墳や遺跡は、いったい何なのか。子どもたちの自然な知的好奇心を導く選書であ
った。もちろん、学年別の少年少女文学全集や伝記全集も。
 春日市には、小さな図書室が一つだけ、あるにはあった。2回か3回程度しか行かなかっ
たので記憶が定かでないのだが、住んでいる町から道のりで5kmほど離れた市役所の中か
すぐそばであった。そこに行けば、大人向けの本に接することはできた。蔵書数はどれほ
どだっただろうか。1万冊はなかったと思う。夏は暑く、冬は寒かった。
 片道5kmは、自転車に乗れば、どうということはない距離ではある。しかし、小学校の
校区外である。同じように校区外の公営プールに自転車で付き合ってくれる同世代の友だ
ちはいても、図書室に付き合ってくれる友だちはいなかった。
 小学6年生の私は、中学受験をめぐる周囲の大人たちの対立の中で疲れていた。母親は、
私立中の受験にこだわった。父親と父方の祖母は、「才走った子どもだからこそ、そんな
特別な中学校に進学させることはやめるべきだ」と考
えていた。私は、周囲の大人たちの誰もの顔を立てる
ために
「力試しに受験し、行くかどうかは受かってから考え
る」
ということにした。そして、私立の女子中学に合格し
た。合格すると、父親も父方の祖母も、「せっかくだか
ら、ぜひ進学するように」と言いはじめた。
 私は正直なところ、女子校に行きたいとは思えなか
ったのだが、その中学は福岡市にあった。福岡市在住・
在学・在勤のいずれかを利用条件とする、福岡市の図
書館が利用できるということである。私は、福岡市の
図書館の魅力に惹かれて、私立中学に進学することに
した。
現在の春日市民図書館サイト。10万人規模
の自治体の図書館としては、非常に充実し
ている方ではないかと思われる。
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
 話を中学以後に進める前に、当時の住んでいた町の状況について、一節を割きたい。そ
こには激しい格差があり、教育の機会を奪われた多くの子どもたちがいた。
格差と、奪われた教育機会
 当時の春日町は、コメ・野菜、鶏肉・卵の生産を中心とする農産地であった。そこには
もともと、学力増進や進学に子どもを駆り立てる空気はなかった。身体が動き、真面目に
働く態度があれば、何らかの形で食べていくことはできる。農家の子ならば、農業を継げ
ばよい。商店の子なら、商店を継げばよい。そうでなくても、土木作業、建設作業など、
選ばなければ仕事だけはある。資格を得て会社勤務をしたいのだったら、自衛隊に入れば
いい。頭は良いに越したことはないけれど、勉強ができることはそれほど重要ではない
……。それはそれで、首尾一貫している世界ではあった。
 この状況を一変させたのは、新興住宅地の出現であった。小学校の同じクラスの中に、
貧農の子どもと比較的大規模な農家の子ども、自衛隊勤務の父親の子どもとリベラルなサ
ラリーマン家庭の子ども、木工所の子どもと土地成金の子どもが入り混じることになっ
た。大人も子どもも含めて、摩擦や衝突が日常的であった。
 同じ校区の中に、イサミさんというお宅があった。詳しい事情は知らないが、ご両親は
いなかった。20歳くらいのお兄さんを頭に、5人ほどの子どもがいた。土木作業などの仕
事をしているらしいお兄さんの日当と、住み込みの「ご飯炊き(今で言う「お手伝いさん)」
をしているお姉さんの仕送りで、小さな子どもたちの生活と通学がなんとか支えられてい
た。お兄さんとお姉さんは、中学を卒業してすぐ働いていた。子どもたちは、しばしば小
学校でいじめに遭った。貧困な暮らしぶりを反映した服装、学力が低いことなどが、いじ
めの口実とされたのだった。
 お兄さんは休みの平日に、しばしば、朝から焼酎を飲み、泥酔して勢いをつけて小学校
に乗り込んできた。子どもたちが遊んでいる昼休みの校庭に入り込み、大声で「校長を出
せ」と叫んだ。教諭たちは、お兄さんから子どもたちを遠ざけた。男性の教諭たちがお兄
さんを囲み、話を聞き、なだめて帰ってもらっていた。お兄さんの主張の内容は「オレの
妹をいじめるな」であった。
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
 小学校の同じクラスにずっと、コンドウ君という男の子がいた。こちらも事情を詳しく
は知らないが、不安定就労をしているお父さんが、コンドウ君と3歳下の妹を一人で育て
ていた。お父さんは、子どもたちの生存を支えるだけで精一杯だった。「清潔な服装をさ
せる」「夏は毎日入浴させる」というようなことにはまったく手が回っていなかった。コ
ンドウ君兄妹の服装は、だいたい3ヶ月に1回くらいしか変わらなかった。季節の変わり目
ごとに1回だけ、新しい服を与えられる感じだった。見た目がみすぼらしいだけではなく、
異臭を放っていた。コンドウ君は、服装のみすぼらしさと異臭によって、しばしば、いじ
めのターゲットになった。教諭たちは、見つけ次第、厳しく叱責した。すると、コンドウ
君の妹が学校の外でターゲットとなるのであった。それもまた教諭たちは見逃さなかった
が、その次には、「コンドウ君の妹の筆箱の中の鉛筆の芯が、外からは見えないように折
られる」といういじめへと発展した。教諭たちは容認しなかったが、結局、いじめを止め
ることはできなかった。
 小学3∼4年生の時、同じクラスに、ハナダさんという女の子がいた。西原理恵子のコミ
ック『ぼくんち』や『パーマネント野ばら』に出てきそうな、極めて大衆的なウドン屋さ
んの子であった。ハナダさんは、控えめで、おとなしく、真面目で、しかし非常に低学力
で、テストの成績はいつも0点や10点、よくて20点程度だった。しばしば、テストの成績
をネタに、いじめられていた。もしかすると、軽度の知的障害を伴っていたかもしれない。
 ハナダさんの状況を、クラスメートの女子たちは憂慮した。いじめの原因は、学力だけ
であるように見えた。そこで、勉強会を開催することにした。会場は、それぞれの家を回
り持ちにすることとした。しかし、この試みはまったく成功しなかった。ハナダさんは、
最初の2回だけはやって来たのだが、3回目からは参加してくれなかった。そこでウドン
屋さんに行ってみると、ハナダさんは、忙しそうに手伝いをしていた。家業の貴重な労働
力として当てにされているので、勉強どころでないのである。そんな問題が、子どもたち
に解決できるわけはない。だいたい、クラスメートどうしで「助けてあげる」などという
失敬な試みが成功するわけはないのである。「なんとかしなくてはいけない気がするけど、
どうやって? 誰が?」という思いが、私の中に苦く残った。
 
 イサミさんの妹も、コンドウ君も、ハナダさんも、その後の消息は聞かない。中学の途
中で不登校になったらしいという噂を聞いてそれっきりであったり、シンナーの売人にな
ったという噂を聞いたのが最後であったり、ご両親が土地を売って転居した後の連絡先が
不明のままであったりだ。「高校に行った」「立派な大人になった」という話は聞いていない。
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
知へのアクセスと希望を求めて∼中学時代
 さて、福岡市の中学校に進学した私のその後に、話を戻したい。
 私は月に2度ほど、日曜日に、福岡市中央図書館へ通うようになった。貸し出し期限は
2週間なので、月に2度は通わなくてはならない計算になるのであった。バスで20分かけ
て西鉄大牟田線の最寄り駅まで行き、さらに15分ほど電車に乗って、福岡市中心部の天神
(福岡)駅で降りる。そこから徒歩約25分(当時、福岡市博多区築港本町にあった)。待ち
時間を含めると、片道に必要な時間は、約1時間30分ほどであった。蔵書数は数十万冊規
模だったと記憶している。
 私は天神駅で降りると、まず、紀伊國屋書店に足を運んだ。駅すぐそばのデパートの1
フロアが、まるまる書店スペースとなっており、当時の福岡では最大の書店であった。私
は書店スペースを一周し、読みたい本をメモし、そのメモを持って図書館に行った。読み
たい本を全部購入するだけの経済力は、中学生にはなかったからだ。
 もっと近くに、福岡市の図書館は他にもあった。しかし、小さな図書館にない本を読み
たいと思ったら、結局は中央図書館まで行くことになる。手間を一度で済ませることを、
私は往復の時間と交通費のコストを支払うことで得た。
 私は中学進学直後、数学で落ちこぼれた。中学1年生
で、数学で方程式が出てきた最初、「移項」という操作
の意味がどうしても理解できず、方程式というものを理
解することもできず、一学期の期末テストで赤点を取っ
てしまったのだった。算数が嫌いでも苦手でもなかった
私にとって、これは大きなショックだった。「将来はモ
ノカキになりたい」と思っている中学生は、数学を諦め
ても生きる道を見つけることができたかもしれない。で
もなんとなく、そこで諦めてしまうと、その後、とても
大きなものを失ってしまいそうな気がした。
 中学校の図書館には、たくさんの参考書があった。
それらを一つひとつ見てみたけれども、理解できる説
明はなかった。「方程式の基本のキ」というべきところ
でつまづいた中学生のための参考書はなかったからで
ある。
現在の福岡市中央図書館ページ。福岡市中
心街すぐそばの、非常に利便性の高い地域
にある。筆者が福岡市在学中は、福岡市
博多区築港本町にあり、アクセスは決して
便利ではなかった。
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
 中学1年生の夏休み、私は福岡市中央図書館で、教員向けの数学教育法の本を探した。
そこには、腑に落ちる説明の数々があった。方程式の場合の等号とは。項とは。移項とは。
式の操作とは。グラフ化した場合に何を表すか。意味が分かれば、あとは操作に習熟する
だけである。私は紀伊國屋書店で、最も平易な問題集を買い求めて帰った。2週間後、私
はもう少し高いレベルの問題集を買い求めた。夏休みが終わるころ、中学1年生向けの方
程式の問題で解けないものは、私にはなくなっていた。
 私は二学期の数学のテストで、満点近い得点をし、女性の数学教員を仰天させた。どう
いう勉強をしたのかと質問されたので、やったことを素直に答えた。教員は絶句した。そ
して、猫という共通の話題を通じて、教員は私と雑談をする機会を増やした。そして、将
来は理数系方面へ進学するように、私を粘り強く説得しはじめた。
 数学落ちこぼれから自分を救い出すプロセスで、私は、遠山啓という名前が気になっ
た。遠山啓は、戦後日本の算数・数学教育の体系化に力あった数学者である。といっても、
中学1年生レベルで読める遠山啓の数学書はほとんどない。私は、自分の読めそうな他の
著書を探した。もちろん、福岡市の図書館でのことである。遠山啓は、さまざまな教育実
践や社会的発言を活発に行っていた。私が初めて「出会った」といえる科学者は、科学の
世界に少しも閉じこもっていない数学者だった。
 数学落ちこぼれからの回復を終えた私は、プロの書き手になりたいという自分の思いを
かなえるために、福岡市中央図書館の中を動きまわった。そこには、倉本聰・橋田壽賀
子・向田邦子のシナリオを書籍化したものがあった。原作のある作品ならば、原作も。私
は原作を読み、シナリオを読み、記憶している限りのドラマ映像と組み合わせ、原作がシ
ナリオとなって映像化されるプロセスを学んだ。シナリオライターたちのエッセイを読み、
どのようにして機会を得てプロになるのかを知った。このころ、私の「プロの書き手にな
りたい」という思いは、もはや夢ではなく、必ず叶えられる将来となった。「どうすれば
なれるのか」「どうすれば作品が生み出せるのか」が具体的に分かったからである。
 中学2年生の時、同じ小学校から同じ中学校に進んだ同級生の一人が、長期欠席をした。
お父さんが事業で失敗し、一家で行方をくらましていたのであった。長期欠席の後、中学
に戻ってきた同級生は、公立高校に進んだ。自分の努力ではどうにもならないことがある。
中学2年生の私は、そう痛感した。
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
 私にも、高校進学時期がやってきた。私は、通っていた女子中の系列の女子高にエスカ
レーター進学したいとは思わなかった。県立の、普通の進学校に行きたかった。しかし母
親が「県立高校を受けるのだったら、学区のトップ校でないと」と強くこだわった。中学
進学時点で学力選抜を受けている私立中学の生徒は、内申点では不利になる。私は、そこ
そこの進学校に行ければいいと思っていたが、母親は「そんな高校に行くくらいなら、こ
のままエスカレーター進学を」と譲らなかった。私は仕方なく、県立高校受験を断念した。
 県立高校入試が終わるころ、私は夜中にトイレに行こうとして、母親が父親に「あの子
はずるい見地から、県立の受験を避けた」と話しているのを耳にした。私の背中に寒いも
のが走った。
 私は、「母親が理解できない進路を選ばなくては」と強く思った。とにかく、自分の人
生に入り込まれないようにしないと。口を開かせたら、手を出させたら、そこで終わりだ。
母親は必ず、私を自分の思い通りにしないと気が済まないのだから。
 とにもかくにも、進学を機会にして福岡を離れたい。「文章の書き手になりたいから文
学・社会学」「数学や理科が好きだから理学」というような進路選択をしたら、福岡を離
れられなくなる。それなら、福岡でできるからだ。
 私は、音楽系に進学しようと考えた。5歳から続けていたピアノは、相当のレベルに達し
ていた。高望みしなければ、音楽系への進学は充分に叶いそうだった。といっても、演奏
家になりたいとは思っていなかった。ドビュッシーのように、音楽の世界にイノベーショ
ンをもたらすような作曲家になろうと、自分の才能の程度も可能性も顧みずに妄想した。
 中学3年生の後半から、私は激しいいじめに遭いはじめた。精魂かけて描き上げた写真
のような風景画を美術教師が評価して、廊下に掲示した。数日後、その絵は姿を消し、二
度と私の前に現れなかった。確実に焼かれるような場所に、誰かが捨てたのだろう。音楽
のテストが、カンニング疑惑によって0点にされた。机に解答が書いてあったからだそう
だった。それを私が書いたのかどうかは調べられることがなかった。騒ぎ立てはじめた生
徒の一人が、その学校の教員の子どもであるという理由で、音楽教員たちは「あなたがそ
んなことをする理由はないと、先生たちも思うんだけど、しかたない」と言いながら、そ
の措置を取った。
 将来、音楽の世界で活躍する自分を妄想することは、私にとっては必要なことだった。
あのカンニング疑惑が嘘だったということを、将来が示してくれるかもしれない、と思え
たからだ。
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
「ここじゃないどこか」へ飛び出す力を求めて∼高校時代
 高校時代の記憶は、霧がかかったようにぼんやりしている。
 中学で仲良くしていたクラスメートの多くは、県立高校に進学した。十代後半の女子の
緊密な人間関係の中に、私は居場所を見出すことができなかった。手をつないでトイレに
行くようなグループのいずれにも属していなかった私は、いじめの格好のターゲットにな
った。登校すると概ね毎日、下足置き場に上履きがなかった。上履きは、下足置き場近辺
のゴミ箱の中にあったり、どこにもなかったりした。教室に着くと、椅子の上に画鋲が上
向きに置かれていた。それをつまみあげて壁に刺して座ると、翌日は、画鋲がセロテープ
で椅子に貼り付けられていた。机の中に辞書などを置いておくと、必ずといってよいほど
紛失し、数百メートル離れたベンチの下から出てきたりした。私は机の中に何も置いてお
かないようになった。カバンは、辞書や教科書で膨らんでいた。すると、「ブタカバン」
と嘲られた。机の中には、3日にあけず、紙が入れられるようになった。利き手でない側
の手で書かれたと思われる文字が並んでいた。内容は、私に対する誹謗中傷であった。
 それらのことを私が苦情として述べ立てると、私の人格が問題にされた。そこで根拠と
されたのは、中学3年生の時のカンニング事件であった。まったくの冤罪なのだが、味方
は一人もいなかった。
 私は高校時代、朝、教室に入るときの「おはよう」と、帰る時の「さようなら」以外に、
会話らしい会話をした記憶がほとんどない。朝夕の挨拶は、「こちらから仲間はずれにす
るつもりはない」という意思表示として行なっていた。返事は、ほとんどなかった。
 
 当時の私は、朝、学校に行くと、授業時間中は概ね居眠りしていた。昼休みは弁当を3
分で食べて音楽室にダッシュし、昼休み中、ピアノの練習をしていた。放課後も、合唱の
伴奏を頼まれたりしない限りは、下校時間まで音楽室でピアノの練習をしていた。帰宅す
ると、家の手伝いをしたりもしつつ、夜10時くらいまで、とにかく音の出せる時間帯はピ
アノの練習。夜間は作曲の課題に向かい合う。息抜きに、5教科の勉強も少しだけ。明け
方に2時間程度、横になってまどろむ。東京芸大で作曲を学びたいというのが当時の希望
だったので、その目的に合わせた生活だった。母親が入院したりすると、一家の家事の全
部が自分にかかってきた。他にやる人がいなかったからである。それでも、2週間に1度の
福岡市中央図書館通いは続けていた。本がたくさんある静かな空間にいる時間がなければ、
正気を保てなかった。
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
 私が高校に入ると間もなく、母親は私に対して
「高校を退学させて工場で働かせる」
と言うようになった。私が自分の考えや意志を持っていることが、母親にとっては自分へ
の反逆と映っていたようである。私が寮のある工場に監禁されて労働を強いられたら、親
のありがたみが分かり、自分に服従するようになるだろう。それが、母親の希望であった。
これは私の推測ではない。母親は事実、3日に1回くらいの頻度で、このとおりの言葉を口
にしたのである。
 私は、家出と自活の方法を真剣に調べはじめた。小学校時代から調べていたのだが、小
学生・中学生には、実際に実行可能な手段は非常に少なかった。しかし高校生の年齢なら
ば、働くことができる。このような高校1年生の春、私は習字の師範資格を手にした。そ
の書道会では、高校1年生から師範資格を得ることができたが、その高校1年生の最初の検
定で合格した。その直前は、半紙1000枚を10日ほどで消費するような練習をした記憶があ
る。このことが、私にとって、どれほどの落ち着きと希望をもたらしてくれたかは、描写
しがたい。家出した後、売春でも、悪条件のアルバイトでもなく、低水準ながら、既に一
定の職業能力のある職業人として自活できる可能性が生まれたのだった。
 私はこの現実から逃れるために、ドビュッシーの音楽へ、より深く耽溺した。ドビュッ
シーの音楽をより深く知りたくてたまらなかった私は、ある時、ドビュッシーが生涯に完
成させた唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」をFM放送で聴いた。激しく惹かれた私は、
LPレコードと楽譜を入手した。LPレコードを傷めないようにカセットテープに録音し、そ
のカセットテープが伸びてワカメのようになるほど聴き込んだ。福岡市中央図書館まで出
掛けない日曜日を、そのための時間に充てた。3時間のオペラを、1日に2回、時によって
は3回も聴いた。そのうちに、一度は舞台上演に接してみたくなった。しかし、非常に上
演機会の少ないオペラである。現在までの日本での上演回数は、コンサート形式による上
演も含めて、おそらく30回未満であろうと思われる。私は、「せめて文字による記録を」と、
福岡市中央図書館の参考資料室を漁った。昭和33年(1958年)に行われたという初演に関
する記事を読みたかったのだが、見出すことができなかった。西日本新聞だから掲載され
ていなかったのか、その時期の縮刷版が置かれていなかったのか、どちらであったかは覚
えていない。すべての本・雑誌・新聞が残されているという「国立国会図書館」が、私の
憧れの場所になった。いつか、そこまで、行きたい。
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
 高校2年生ごろから、母親は私に対して、「将来は専業主婦に」という望みを顕にしはじ
めた。いつの間にか、「工場で働かせる」とは言わなくなっていた。
 当時の私の学業成績は、学年上位10%∼40%くらいの間をうろうろしていた。定期テス
トでは、真面目に勉強すればよい成績が取れるのだが、すると母親が「あんたは、何をし
ても、何にもなれん、親の言うことを聞かないから、将来は恐ろしいことになる」と言う
のだった。そこで私は、「よい成績は母親を機嫌悪くする」と学習することになる。次の
定期テストでは、試験勉強を一切しないでおく。すると成績は落ちる。そうなればそうな
ったで、母親は「親の言うことを聞かない罰」と怒る。おそらく、成績が問題なのではない。
母親は、私の成績が外聞悪くない程度にほどよく、しかし、職業キャリアにつながるよう
な進学は不可能な程度に悪くあってほしいのだろう。
 母親は、さまざまな機会をとらえて、私に「将来は専業主婦になる」と明示したり暗示
したりした。ある時、「美容院に行ったら、そこに占い師がいて」と話しはじめた。占い
師によれば、私は将来、ごく普通の結婚をして、ごく普通の専業主婦になるのだそうだっ
た。
 母親は、「将来は専業主婦になるのだから」と、「訓練」を始めなくてはと言いはじめた。
母親はまず手始めに、私に与えられていた勉強スペースを取り上げ、台所の隣の暗く冷た
い部屋へと移動させなくてはならない、と主張した。高校にだけは通わせてやるが、勉強
も習い事もすべて取り上げ、住み込みの召使のようにこき使う。そうすれば、よい嫁にな
る。それが母親の主張であった。しかし父親は、それに賛同しなかった。父親は私の味方
であったというわけではないのだが、私の学業成績がそれほど悪くないので、短大ではな
く普通の四年制大学に進学させたいと考えていた。
 ここで、父親はどうしていたかについて、一言述べておきたい。
 父親は、多忙なサラリーマンであった。朝は子どもたちが学校に登校した後で起き、夜
は日付が変わってから帰宅する毎日であった。土曜日・日曜日・年末年始も、在宅してい
ないことが少なくなかった。しばしば、泊まり勤務もあった。「家庭にいない」という形
でよくない状況の維持に貢献していた、とも言える。
 母親は、父親がいる時には、私に対して特におかしな言動は取らなかった。しかし父親
は、母親が私に対して虐待めいたことをしているのを、うすうす感づいていた節がある。
父親は「長女だから、そういう立場に置かれやすい」と言い、同時に「長女だから、不満
を持ってはならない」とも言っていた。いまだに、私には理解できない。最大限に好意に
解釈すれば、多忙な仕事・母親と私の関係以外にも紛争の多い家庭の状況に対応するだけ
で手一杯で、それ以上の問題を抱えたくなかったのであろう。
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
 私は、「音楽系への進学では足りない」という危機感を抱いた。どのような意味でも、
母親の望みの実現に結びつかないような進学をしなくては、私は職業生活の入り口に立て
ないであろう。音楽系では、結婚のハクに使われる形で終わってしまいそうだ。
 高校3年生の1学期、決定的なことが起こった。私の作曲の指導者が、
「東京芸大作曲科なら二浪が必要。芸大にこだわるなら楽理科に、作曲にこだわるなら愛
知県立芸大か京都市立芸大にしなさい」
と宣告したのだった。私はその場で「作曲を選びます」と答えた。今にして思えば、楽理
の研究者という進路は、私に極めて適したものであったと思う。しかし当時、その判断が
できるほどには楽理を知らなかった。
 帰宅した私は、作曲の指導者の言葉を母親に告げた。すると母親は、
「そんなワケの分からない大学に、なんで行かせなきゃいけないの」
と叫んだ。どちらも、入るのがそれほど易しい大学ではないのだが、母親にとっては「ワ
ケの分からない大学」なのであった。私はその瞬間、音楽系への進学を断念する決心がつ
いた。そして、高校3年生の7月に「理転」した。さまざまなことに関心のあった私は、物
理を選ぼうと思った。自分の将来がどうなるのかは分からないが、物理なら、どのような
将来にもつないでいけそうな気がした。言い換えれば、「つぶしが効く」ということである。
 しかし、受験勉強は捗らなかった。私の通っていた高校の進学率は、昭和50年代の当時
すでに90%を超えていたが、半数は、系列の女子短大への進学だった。中学・高校・短大
をその学園で過ごし、好条件で腰掛けOLを3年程度経験し、その間に条件のいい結婚相手
を見つけて奥様に。その高校は、そう望む親と娘が選ぶ学校であった。理科や数学の進度
は、概ね1年分、通常の普通科高校より遅れていた。私は数学IIIを習うことができず(開講
されていたが、内容はほぼ数学IIBであった)、物理IIは開講されない高校から、進学校出身
者と同じ条件で、理学部物理学科を目指そうとしていたのだった。
 高校3年生の夏、私は、「とにかく現状を把握しないと対策もできない」と考え、全国模
試を受験しようと思った。2週間に1度、福岡市中央図書館に通う習慣は、その時にも続い
ていた。いつものように、図書館に行く前に紀伊國屋書店に寄り、申し込みをしようとし
た。しかし、財布の中にあったお金は、受験料に足りなかった。意気消沈した私に、顔な
じみの店員は、近くの予備校の特待生試験の存在を教えた。福岡市中央図書館の近くにあ
った予備校だった。私は、受験料無料の特待生試験を申し込み、受験して、合格した。
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
 私はこの予備校に、その後2年半も、特待生としてお世話になることになった。受験や
進学に適する家庭環境になかった私は、予備校の教員たちの理解と支援、福岡市中央図書
館にあった多数の本による勇気づけにより、東京の大学への進学を実現させることができ
た。
次の一歩への歩みは、いつも図書館とともに∼大学入学からライターとなるまで
 私は東京理科大・理学部第二部物理学科に進学した。予備校の教員たちに知恵を授けら
れ、親に内緒で受験しておいたのだった。福岡の大学には白紙答案を提出した。
 どうしても帰りは遅い時間になるので、大学の近くにアパートを探した。新宿区中町に
あった、家賃3万円・トイレ共同・風呂なしの木造アパートで、私は東京での生活を開始
した。これで私が、原家族での性差別や母親の侵入から自由になれたわけではなく、苦し
められ続ける状況はその後25年ほど続くことになったのだが、本稿ではそのことについて
は詳述しない。
 徒歩1分ほどのところに、新宿区立中町図書館があった。平日の昼間にも、そこには真
剣に学ぶ大人たちの姿があった。おそらく、何かの研究をしていると思われる人たちが、
朝から晩まで真剣に机に向かっていた。当時の東京理科大(神楽坂キャンパス)の図書館は、
私語が非常にうるさく、クラスメートがやってきては普通の大きさの話し声で雑談を始め
るので、まったく勉強に適していなかった。私は中町図書館や、大学すぐそばのハンバー
ガーショップ「ウエンディーズ」で勉強した。ウエンディーズでは、勉強をする目的で大
学に来ている数少ないクラスメートと一緒にテーブルを囲み、雑談したい人の入り込む余
地をなくすことができた。勉強の仲間が欲しい時には、そうした。
 大学2年生の時から、私は研究所に職を得た。最初は、国家プロジェクトで作られた研
究所だったが、大学3年生の年度末に解散が決定した。私は上司のあっせんで、大学4年生
の時はNTT基礎研究所(武蔵野)に勤務していた。
 NTT基礎研究所(武蔵野)には、巨大な図書館があった。「工学系書籍・雑誌では東洋一
の規模」ということであった。大きめの学校体育館程度の広さの図書館に、床から天井ま
で、聞いたこともない名前の学術雑誌が製本されて並んでいる。それは、圧倒されるよう
な風景だった。私は、この「論文読み放題」という恵まれすぎた環境のもと、研究者を目
指そうと大学院修士課程を受験し、合格した。
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
 憧れの国立国会図書館のすぐそばまで来たのではあったが、実際にそこに足を踏み込ん
でみる時間はなかった。昼間は仕事、夜は大学、夜間は勉強やバンド活動やスポーツ。私
は忙しすぎた。
 1990年、バブル経済絶頂期に修士課程を修了した私は、苦労らしい苦労をすることもな
く電機メーカーに就職し、企業研究者となった。専門は、半導体に関する各種計算機シミ
ュレーションであった。そこには小さな図書室があったが、調べ物の役に立つ場所ではな
かった。1960年代や1970年代の専門書が数多くあり、史料としては役に立ったが、最新の
技術・研究情報は非常に少なかった。
 私は就職と前後して、現在も住む東京都杉並区に転居した。図書館は徒歩圏に3館。自
転車を利用すれば5館が利用可能であった。いつの間にか、図書館は、「行くために苦労し
なくてはならないところ」ではなく、「あってあたりまえ」の存在になっていた。
 企業研究者時代の私は、相当数の専門書を自腹を切って購入していた。典型的な性差別
に遭っていた私は、名刺の印刷・書籍の購入など些細なことがらの数々で「理由をつけて
繰り延べられたあと結局は叶わない」という扱いを受けていた。会社の予算を当てにして
いたら、必要な書籍を手にすることはできない。会社でそのような書籍や雑誌を手にして
いたら、上司から警戒のまなざしで見られ、やはり読むことはできない。研究キャリアを
諦めたくなかったら、休日に、自腹で購入した書籍で勉強をするしかなかった。
 しかし、高価な専門書を必要なだけ購入するのは、容易ではない。私は、杉並区立図書
館に購入をリクエストした。まだ予算が比較的潤沢だったので、私以外に読む人のなさそ
うな書籍でも、たいていは購入された。このことが、私の目の前をどれほど明るくしてく
れたか。会社がどうだろうが、上司がどうだろうが、まだ、道は閉ざされていない!
 逆境は逆境でも、あがくことがまだ可能だった逆境の日々は、1997年7月のある日、終
わりを告げた。上司が、会社の上層部に対して「三輪さんが会社を転覆しようとしている」
と話したからだ、と聞いている。会社・組合の総力をあげた職場いじめが始まっただけで
はなく、私の生活圏・交友・私生活などすべてを含めた、監視と干渉の網の目の中での圧
迫。いつ、どこまで、どのような結果をもって終わるのか、想像のしようもない。あがく
ことさえ困難な日々が始まった。私が2000年にその会社を退職し、2002年、内縁関係にあ
ったが1997年以後は私への攻撃の最先鋒となった同僚と別れてからも、その監視や干渉は
続いた。続くべき理由が何もないにもかかわらず、続いた。2013年現在も、まだ「終わっ
た」と確信することはできていない。
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
 話は前後する。私は1995年ごろ、「この会社に長く勤務し続けることは無理だろう」と
思っていた。性差別主義的な体質だけではない。バブル終焉とともに始まった苛烈な人員
削減で、中高年社員たちが会社から消えた次に、女性専門職・女性総合職がターゲットに
されはじめたからだった。1995年以前も、私の職場環境は決して良かったわけではないが、
体質の古い会社に見られる典型的な性差別の範囲にとどまっていた。しかし1995年以後は、
明確に「辞めさせるためのいじめ」という様相を帯びた。
 いずれにしても私は、次の職を探す必要があったが、同じようなメーカーに転職したい
とは思わなかった。
 当時、電機連合に所属する大手メーカー間では、協定によって、同業他社への転職は不
可能な仕組みが作られていたため、望んだとしても転職はできなかった。私は、自分の従
事していた業務を専門とする外資系企業への転職も検討したが、当時、それらの企業は、
相次いで日本拠点を閉鎖して撤退しようとしていた。顧客である日本の電機メーカーの業
績が悪化していたからであった。
 私は、子どものころの夢であった「プロの書き手になる」を、実現しようと思った。出
版業界とコネクションを持っている人と出会うたびに、その希望を語ってみた。
 ある人は、新聞・雑誌への投稿を勧め、「掲載される確率が80%を超えたら、プロのラ
イターとしてやっていくにはどうすればいいか、きっと分かるよ」と言った。私は実行し
てみた。間もなく、掲載される確率は80%を超えた。確かに、プロの書き手が報酬をいた
だけるゆえんは、よく分かった。80%という掲載確率は、その媒体の性格を知り、その媒
体の読者を知り、掲載される投稿の傾向を知り、その範囲で自分の書けることを書くこと
によってしか実現できない。これは、プロの書き手であれば誰しも実行しなくてはならな
いことである。しかも実行し続けるのは容易ではない。媒体も読者も変化していくからだ。
 ある人は、コンテストへの応募を勧めた。私は入選し、新しい実績を一つ積むことがで
きた。
 ある人は、私の書けそうな内容に関して、書き手を求めている編集者を紹介してくれ
た。単発記事を数本書くうちに、連載の話が飛び込んできた。連載を続けていくうちに、
特集記事やムックでの執筆の話もいただけるようになった。
 自分でも、新規媒体の開拓は続けていた。自分の仕事の大半がテクニカルな記事で占め
られている時期には、エッセイの仕事を探した。コアなエンジニアを対象とする媒体ばか
りで仕事をしていた時期には、一般ユーザー向けの仕事を探した。
 なぜ、そんなことができたのか。たくさんの図書館があったからだ。
 勤務先の貧弱な図書館では、私が書こうとする記事の下調べは、到底不可能だった。私
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
は『東京ブックマップ』を片手に、東京の数多くの専門図書館や国立国会図書館へと足
を運ぶようになった。数多くの雑誌、数多くの書籍、それらを発行している出版社。私が
一つの分野に安住してしまおうとすると、本や雑誌のどれかが、「そんなことでいいのか
い?」と話しかけてくるような気がした。
 いつの間にか私は、その世界のどこかで生きている自分の将来を、まったく疑わなくな
っていた。2000年、私は電機メーカーを退職した。不安は、まったくなかった。
 以来12年、紆余曲折や浮き沈みはあるものの、私はライターとして、生計を立てること
を続けてこれている。
私にとって、専門知とは?∼大学図書館との出会い
 2007年4月、私は筑波大学大学院数理物質科学研究科・博士後期課程に進学した。中断
したままの研究への思いが、止みがたかったからだ。同年7月、私は身体障害者手帳を取
得した。2004年に運動障害が始まって以後、どのような障害者福祉の恩恵を受けることも
なく、ただ障害によるハンディキャップを背負いつづけるだけの状況が続いていた。身体
障害者手帳は、その状況から、私を解放してくれるはずであった。
 しかし実際には、身体障害者手帳取得は、生存のための闘いのスタートラインに立つこ
とに過ぎないのであった。ヘルパー派遣(介護給付)も、車椅子などの補装具の交付も、
何もかもが申請によって行われる。そこには、いわゆる「水際作戦」もある。「水際作戦」
とは、相談を名目として申請を行わせない対応である。「水際作戦」に屈せずに申請した
としても、申請から給付・交付までの道のりが平坦であることは稀で、結局は交渉力勝負
であったり、情報戦であったりする。
 さらに、障害者福祉をめぐる事情は、2000年以後に二転三転している。2002年に支援費
制度、2006年に障害者自立支援法。少し前の書籍が、まるで役に立たない。この分野を専
門として最新情報にキャッチアップしつづけている人々の助力がなければ、事実上、何も
できない。
 私は、福祉事務所に紹介された介護事業所のヘルパーに暴言・暴行を受けたり、同じく
福祉事務所に紹介された訪問医療クリニックの医師・作業療法士などにハラスメントを受
けたり、という泥沼の中で、障害者運動家たち・障害者支援を専門とする弁護士たちと出
会った。彼ら彼女らの応援のもと、身体に適した車椅子・充分な時間数のヘルパー派遣な
どを得ることができるようになった。2010年のことであった。大学院博士課程は、研究ら
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
しいことが何もできないまま、研究室でのハラスメントに耐えかね、2012年に退学した。
生存・生活が危機的である状況で、研究ができるわけはないのである。
 では、大学院博士課程への進学は無意味だったのか。私は「概ね無意味だった」と思っ
ているけれども、一つだけ、感謝したい出会いがある。筑波大学附属図書館との出会いで
ある。
 筑波大学附属図書館は、私が初めて経験する、大学図書館らしい大学図書館だった。文
系学部をもたない東京理科大の図書館には、少なくとも私が在学していた時期、人文科学
系・社会科学系の蔵書は非常に少なかった。総合大学である筑波大学の附属図書館には、
極めて幅広い分野の書籍や雑誌があった。
 障害にも、障害を抱えた状況での研究にも理解がなく、それどころかハラスメントに遭
うような所属研究室で、私は文字通り辛酸を舐めた。本も論文も「読めていない」「読め
るわけがない」と指導教員に言われた。そんなことが連続するうちに、私は英語の専門書
や英語の論文どころか、日本語で書かれた一般の新聞も雑誌も読めなくなった。文字も文
章も追うことができるし、意味も分かる。でも、読めていないのではないか。読めている
とすれば、指導教員の主張が誤っているということになるのだから……当時の私は、その
ように考えていた。指導教員の主張に異を唱えるなど、心の中だけでも、恐ろしくてでき
なかった。
 ましてや、読めないのに書くなんて。この時期は、大学院進学前から決まっていた連載
を継続する以外には、書く仕事はしていなかった。それは、降板するわけにはいかないか
ら、継続していたのであった。毎回、恐怖に駆られながら原稿を書いていた。指導教員が
どういう反応をするかを考えただけで、引き裂かれるような気持ちになった。書きたくな
い。でも、書かなくては。編集者も読者も原稿を待っている。その結果、研究室でどうい
うことになるかは、ともかくとして。
 自殺を本気で考えたことも、一度や二度ではない。研究室の学部4年生に「あれ」「それ」
などと呼ばれたこともある。50歳近くにもなって、そんな目に遭うなんて。私は、自分が
生まれてきたこと、生きながらえていることが間違っているから、そんなことをされるの
だと思った。なお、この学生は、著作権法を理由として、私に研究資料を渡さなかったこ
ともあった。電子データ化もその送付も著作権法で禁じられているから、必要だったら東
京からつくばまで取りにくるべし、というのであった。2010年のことであった。私は著作
権法を調べ、その言い分にまったく根拠がないことを電子メールで指摘した。その電子メ
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
ールは、指導教員にも同報した。しかし、返事はなかった。私は、その研究資料を得るこ
とができないままであった。
 そんな大学院生活の中で、私はしばしば、図書館へと逃げ込み、図書館の多目的トイレ
の中で、黙って涙を流した。落ち着いてからトイレを出て、図書館の多様な書籍や雑誌を
眺めていると、
「世界のどこでも、どのような形でも、自分が生きていけないということだけはないので
は?」
という思いが、なんとなく、沸き上がってくるのであった。私はなんとか、死なずに踏み
とどまることができた。そして翌週、「図書館にだけは行こう」という思いだけで、つく
ばを訪れた。
 2010年4月、私は大学院を休学しはじめた。その時の私は、大学の対応が後手に回りや
すいゴールデンウィーク期間を狙って、場所と日時を予告した上、筑波大学の学内で自殺
しようと考えていた。気がかりは、10歳を過ぎていた2匹の猫の行く末であった。私は、
猫を安心して託せる先を探したが、思うに任せず、そのうちにゴールデンウィークは過ぎ
てしまった。そして5月中旬、猫の1匹が体調を崩した。もう1匹ともども、高齢期の猫に
多くみられる慢性腎不全に罹患していた。
 私は、「猫たちを守らなくては」と思った。私が望んだから、2匹の猫たちは私の家族に
なったのである。終生、幸せと健康を守るのが、私の義務ではないか。しかし猫たちは、
それまで健康そのものだった。私には、猫の病気について知る必要がなかった。猫の腎臓
がどこにあるのかも知らなかった。まず、杉並区の図書館に向かい、猫の病気に関する書
籍を、かたっぱしから読んだ。概ねのことは分かった。でも、もっとくわしく知りたい。
くわしく知って、治療に主体的に関わり、飼い主としてできるだけのことをしたい。「概
ね」では物足りない。
 私は、生物学の専門家でもある猫愛好家仲間から、猫の慢性腎不全に関する論文の情報
を得た。筑波大学附属図書館の電子ジャーナルにアクセスし、その論文を読んだ。さらに、
関連しそうな論文も読んだ。基礎知識の不足は、杉並区の図書館では補えなかった。私は
ときどき、東京大学駒場図書館にも通うようになった。論文が英語で書かれていることも、
私に生物学系の知識がまるっきり欠落していることも、まるで障害にならなかった。分か
らなければ、調べればいいのである。
 疫学の論文が、動物内科学の論文が、私を、猫たちを助けてくれた。「現状は何なのか」
「これからどうなりうるのか」を知るには、それで充分だった。「では、どうすればいいの
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
か?」は、経験を積んだ獣医師の専門性に期待するしかないところである。飼い主として
可能な限りで勉強をする私の態度は、獣医師との緊密な協力・信頼関係を築くのにも、大
いに役立った。
 気がつくと、頭の中で「読めていない」と言い続けていた指導教員の声は、まったく聞
こえなくなっていた。代わりに、怒りをギリギリのところで抑えている爆発寸前の表情が
見えるようになり、現在に至っている。今でも、恐怖を感じる。その恐怖感をねじ伏せな
がら、私は日々、さまざまな文献に接している。
 猫たちの闘病は、現在のところ、非常によい成績を収めている。予想外に、長期にわた
りそうだ。これからも支えるためには、しっかり稼がなくては。その思いが、私に「指導
教員の爆発寸前の顔」への恐怖をねじ伏せさせている。
 休学と短期の復学を繰り返していた期間に、私は一回、研究室を異動している。新しい
研究室は、教員たちも学生たちも大きな問題がなく、比較的円満に運営されていた。しか
し私はすでに、「元指導教員のいる筑波大学の構内にいるだけで怖い」というほどの状態
になっていた。いずれにしても、そこで研究を続行することは、不可能であった。
 2012年9月、私は大学院を退学した。大学図書館にも電子ジャーナルにも、容易にアク
セスすることはできなくなった。専門知の力や必要性を感じていても容易にアクセスでき
ない人々の悩みが、また私の現在の悩みでもある。考えてみればゼイタクな悩みである。
私が専門知の力を知っているのは、曲りなりにも高等教育の機会に恵まれたからに他なら
ない。
 では、教育の機会、知へのアクセスの機会に恵まれない人々にとって、問題は何だろう
か? 識字率が低いとされる発展途上国の話ではない。明治5年、学制序文で「邑(むら)
に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と教育機会保障を志す以前の日本の
話でもない。現在の日本の話である。
義務教育というゼイタク∼障害児とその親たちの現在
 「義務教育を受けることもできない子どもたちが、現在の日本に、たくさんいる」と言
ったら、驚かれるだろうか? その一つの類型は、障害児たちである。
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
 1979年、障害児の就学猶予・就学免除制度が、原則として廃止された。
 これらの制度は、重度障害児・重複障害児の親に対して、子どもの義務教育時期をもう
少し年長になってからにすることを許可したり、義務教育を受けさせる義務そのものを免
除したりするものであった。重度・重複障害児の親にとって、子どもに義務教育を受けさ
せることが重い負担であると認識されていたのである。このことは、障害児を含むすべて
の子どもに対し、教育の機会を保障したであろうか?
 答えは、否。
 34年後の現在も、その状況は続いている。就学できるということは、通学できること・
学校生活を送れることを意味しない。通学や学校生活への支援は、現在も決して充分では
ない。通学できなければ、就学できたことの意味はない。通学できても学校生活に必要な
支援が充分に得られなければ、通学させることが生命にかかわるリスクをもたらすかもし
れない。たとえば、痰の吸引などの医療的ケアが必要な子どもに対し、必要なケアが与え
られなければ、その子どもは学校生活を無事に送ることができない。
 状況は、少しずつは好転してきている。しかし現在もなお、充分ではない。
「日本のどこの、どのような家庭に生まれた子どもでも、障害があっても義務教育だけは
不足なく受けられる」
という状況には、まだまだ、ほど遠い。
 障害児が充分な教育を受けられるかどうかは、献身的かつ充分な経済力を持つ親に恵ま
れるかどうかにかかっている。現在もまだ、通学も学校生活支援も、親が頼みなのだ。
 では次に、教育基本法を見てみよう。障害児の教育機会に関係しそうな記述は、どのよ
うになっているだろうか?
新旧教育基本法は、障害児の教育機会をどう定義したか
 1947年に施行された教育基本法(旧法)によれば、
第三条(教育の機会均等)すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会
を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位
又は門地によつて、教育上差別されない。
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な
者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
とある。障害児も含めた教育の機会均等は、この時に明文化された。「能力に応ずる教育」
として、障害児は盲学校・聾学校・養護学校で教育を受けることとなった。重度・重複障
害児に対しては、就学猶予・就学免除という形で、教育の機会が与えられない状況が続い
た。その状況も、1979年には消滅した、はずである。現在、障害児教育は「特別支援教育」
と名を変え、障害児教育の場の多くは「特別支援学校」と名を変えているが、障害に応じ
た教育を行うことが原則となっている。
 ちなみに、教育基本法(新法・2006年施行)では、上記部分に該当する部分は、以下の
ようになっている。
(教育の機会均等)
第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなけれ
ばならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別さ
れない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受け
られるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難
な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。
 旧法との大きな違いは、第2項が含まれたことである。「教育上必要な支援」は、通学支
援も学校生活に関するさまざまな支援も含みうる、と考えることができる。いまだ具体性
を大きく欠いてはいるものの、非常な前進である。それでは、第2項は現在、どのように
実現されているだろうか? 教育基本法(新法)が成立してから、2013年は既に7年目と
なる。すべての地域において、障害児の通学や学校生活支援が充分に行われている、と期
待したいところである。しかし、現状は、その期待の実現には程遠い。
難病女性:千葉→富山転居、学業に支障 自治体により対応に差「同じ支援を」
毎日新聞 2013年1月5日 東京朝刊
 一人では立ち上がることができない難病を患いながら千葉市の福祉サービスを利用して
高校を卒業し、昨年4月に富山大に入学した女性(20)が、地域間格差により大学のある
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富山市で支援を受けることができなくなった。通学だけでなく、キャンパス内でも両親が
付き添わなければ大学で学べない状況が続いている。女性は「地域格差なく、全国共通の
支援を受けられるようにしてほしい」と訴えている。【中川聡子】
 女性は3歳のころ、体の筋力が衰える難病「先天性筋ジストロフィー」と診断された。
現在は呼吸器をつけて電動車いすで移動する。一人では立ち上がれず、トイレには最低2
人の介助が必要だ。
 千葉市では、障害者自立支援法に基づく市の移動支援サービスが高校から受けられる。
女性はこの制度を利用して、校内で市の介助サービスを受けていた。
自立支援法は、障害者の「居住地」の自治体がサービスを提供するかどうか決定すると規
定している。女性は昨春、富山大に合格、両親とともに富山市に転居し、市に同法に基づ
く支援サービスの利用を申し込んだ。
 だが、市側は「通勤や通学のような年間を通じた長時間・長期利用はできない」とした
市の実施要項に基づき、サービスを提供しないことを決定。通学時も学校にいる間も支援
を受けられなくなった。自費でヘルパーを頼んだ場合は1日2万円近くかかるため、両親が
通学に付き添い、大学内でも女性を介助することになった。
 女性は、夏休みや冬休み期間は千葉市の実家に戻って病院でリハビリをしている。1年
のうち5カ月程度は千葉市で過ごすことになる上、住民票も移していないため、千葉市に
対し富山大の通学についても従来通りの支援を求めた。だが、市障害者自立支援課は「富
山の大学に通う学生の『居住地』は、千葉市とは認められない」として応じなかった。
両市の決定を受け、富山大は大学の予算で昨年10月から週3回、昼休みのみにヘルパー2
人を雇い、女性を支援しているが、2月までの「試験的措置」で、来年度の対応は決まっ
ていないという。
 両親は「自治体によって支援の有無が左右される法制度は納得できない」と嘆く。女性
も「大学にいる時だけでも両親に負担をかけず学校生活を送りたい。このままでは障害者
は支援してくれる自治体を出ることができず、進学も就職も選択肢がなくなってしまう」
と訴えている。
 なぜ、このようなことが起こってしまうのだろうか? 本節では以下、障害児(者)の
通学支援の現状について述べたい。
 公的障害者福祉には、「身体介護」「家事支援」とともに、「移動支援」というメニュー
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
がある。しかし現在、自治体の多くで、この移動支援は、通学・通勤・営業には使用して
はならないことになっている。「公共サービスを障害者本人の資産形成に利用させてはな
らない」というのが、その理由である。
 筆者の住む東京都杉並区の「杉並区障害者等移動支援事業実施要綱
(http://www2.city.suginami.tokyo.jp/library25/41990949774800040000 /4199094925030
0020000/41990949250300020000.html)」
には、その旨が下記のように明記されている。
第3条 事業は、障害者等が次のいずれかに該当する外出の際にガイドヘルパーを派遣す
ることを内容とする。
(1)官公庁等への届出、冠婚葬祭等、社会生活上必要な外出
(2)趣味の活動、映画鑑賞及び散歩等、余暇活動を目的とした外出
(3)その他区長が特に必要と認める外出
2  ガイドヘルパーの派遣は、1回につき、原則として1日の範囲内で用務を終えるもの
に限る。
3  第1項及び前項の規定にかかわらず、次の各号のいずれかに該当するときは、原則と
して事業の対象としない。
(1)営利を目的とするとき。
(2)通所、通学、通勤又は通院等を目的とするときであって、通年かつ長期にわたると
き。
(3)政治的又は宗教的な活動を目的とするとき。
(4)公序良俗に反する目的のとき。
(5)その他区長が不適当と認めるとき。
 問題点は数多い。障害者に必要な外出の範囲が、あまりにも一般の人々に対して狭く設
定されていること。一般の人々であれば行う可能性のある活動と付帯する「外出」を、一
般の人々と同様に保障していないこと。
 さらに、一部自治体では、詳細な行動記録を写真付きで提出するよう求めている。
 障害ゆえに「外出してプライバシーを侵害されるか、外出を断念するか」の究極の選択
を迫られるのである。
 しかしここでは、第3項(2)に注目していただきたい。
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
(2)通所、通学、通勤又は通院等を目的とするときであって、通年かつ長期にわたると
き。
 
 「移動支援サービスは、通学には利用してはならない」ということが示されている。
 特別支援学校であれば、多くはスクールバス運行などを行い、親の負荷を軽減してい
る。しかし、バス停留所までの送迎は、親が行うしかない。
 通常の小学校・中学校の特別支援学級や通常学級に在籍する障害児も数多い。理由は、
「親が分離教育(障害児だけを特別支援学校などで学ばせること)に反対している」であ
るとは限らない。「知能が非常に発達しているため、本人の発達のためには通常学級で学
ばせるのが適切」という判断から、通常学級という選択がされることもある。いずれにし
ても、登下校の支援・必要であれば学校にいる間の生活支援を、誰かが行う必要がある。
その「誰か」は、親でなければ、親の依頼したボランティアとなるしかない。その時間や
労力を支払うことのできない親のもとに生まれた障害児は、実質的に、義務教育も受ける
ことができないのである。
 近年、この状況は徐々に改善されつつある。引用した記事にあるとおり、千葉市は独自
に、障害者向け移動支援サービスを、障害者が高校教育・高等教育を受けるために利用で
きるようにしてきた。また東京23区内では、台東区が2008年より障害児通学支援事業を開
始し、高校までの学校教育に関する通学を保障する試みを行っている
(http://www.city.taito.lg.jp/index/kusei/kisoshiryou/gyoseishiryo/hakusho/h22hakusho.
files/19_syougaizituugakusien_p31_32.pdf#search=%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E5%85%
90%E3%80%80%E9%80%9A%E5%AD%A6%E6%94%AF%E6%8F%B4)。
 しかし、同様の動きが他自治体に波及するまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
 引用した記事の例では、もし富山市が千葉市と同様の制度運用を行っていれば、女性は
富山市に住民票を移し、移動支援サービスを受けて学生生活を送ることができるはずであ
る。しかし、それが不可能なので、千葉市の移動支援サービスを富山市で利用したいと希
望せざるを得ない現状だ。それでも、この女性は、高等教育の場までたどりつけた幸運な
例であろう。
 「日本のどこの、どのような家庭に生まれても、せめて義務教育を受けられる環境を得る
ことができる」は、障害児にとっては、現在もなお、遠い先に実現されるかもしれない希望
なのである。その希望が実現される将来を待っている間にも、障害児たちの子ども時代は過
ぎていき、前期青年期へと突入する。まもなく、社会人となるべき時期がやってくる。
「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号
義務教育も受けられなかった障害者たちのその後
 現在、就労に必要とされる最低限の最終学歴は、せめて高校卒業であろう。最終学歴が
高校中退・中学卒業であると、健常者であり、なおかつまったく仕事を選ばないとして
も、就労は困難になる。好んで就労したがる人の少ない清掃・介護などの職種でも、最終
学歴が中学卒業や高校中退では、就労も就労継続も困難なのが実情だ。障害者にとっては、
現状はどうだろうか?
 障害者の就労状況や収入に関する信頼できる調査は、非常に少ない。
 厚生労働省は、障害者雇用の拡大を目指して、いくつかの調査を行っている。2012年
6月に発表された「平成24年 障害者雇用状況の集計結果」(http://www.mhlw.go.jp/stf/
houdou/2r9852000002o0qm-att/241114houkoku.pdf)から、いくつかのデータを引用する。
 稼働年齢(15歳∼64歳)の障害者の障害種別ごとの就労率は、以下のとおりである。就
業者数に端数が出ているのは、調査からの推計値であることによる。また、作業所等で福
祉的就労に従事する障害者も含んでいない。就業率は私が計算した。
 「障害者は障害者福祉があるから甘えて働かない」という世間のイメージどおり、と言
われてもしかたがないかもしれない。なお、作業所等での福祉的雇用を含めると、就業率
は40%程度となる(2008年 厚生労働省調査 http://www.mhlw.go.jp/joudou/2008/01/dl/
h0118-2a.pdfによる)。問題は、それらの労働のありかたや、収入の状況である。
 ここでは、2012年に「きょうされん」が発表した調査結果から、いくつかの結果を紹介
したい。「きょうされん」は1977年、障害者共同作業所の連絡会として発足した団体である。
この調査は、網羅性や規模の面で問題なしとは言えないが、とにもかくにも、現状の一面は
示されている(http://www.kyosaren.or.jp/research/2012/20120427chiikiseikatujittai_dai1ji.pdf)。
就業率(%) 就業者数(推計・人) 18歳以上の障害者数(人) ※注
身体障害者 9.4 346,364.5 3,654,000
知的障害者 18.7 76,603 410,000
精神障害者 0.6 18,438 3,054,000
(就業者数の出典:「平成24年 障害者雇用状況の集計結果(詳細表)」1(1)②障害者種別雇用状況、厚生労働省、2012年。
18歳以上の障害者数の出典:「平成24年版障害者白書」、厚生労働省、2012) ※注:精神障害に関しては20歳以上。
表1 障害者の就労状況
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 障害者の年収は、具体的にはどのような金額だろうか?
 「ワーキング・プア」と呼ばれるのは、単身者で年収200万円以下の層であろう。この
グラフで見るとおり、障害者のほとんどは、就労していても「ワーキング・プア」なので
ある。収入の中央値は、100万円以下のラインにある。
 年収100∼200万円の障害者の場合、収入源は、
・障害者雇用枠を利用しての一般就労(ただし勤務時間は一週間に30時間程度)
・生活保護+作業所などでの就労収入
・障害基礎年金+生活保護+作業所などでの福祉的就労による就労収入
・障害基礎年金2級+好条件の作業所などでの福祉的就労による就労収入
・障害基礎年金1級+平均的な作業所などでの福祉的就労による就労収入
のいずれかであることが多いと考えられる。障害基礎年金の金額は、1級で年額約100万円、
2級で年額約80万円となる。障害基礎年金2級を受給している人に、1ヶ月5万円の就労収入
図 1 障害のない人とある人の収入の比較(単位:%)
2,000万円超
2,000万円以下
1,500万円以下
1,000万円以下
800万円以下
700万円以下
600万円以下
500万円以下
400万円以下
300万円以下
200万円以下
100万円以下
0 10 20 30 40 50 60
0.4
0.6
  2.8
4.2
   3.9
    5.7
      9.4
          14.3
             18.1
            17.6
          15
     7.9
可処分所得の実質中央値 224万円
貧困線 112万円
障害のない人
障害のある人
0.1
1
42.8
56.1
(出典「障害のある人の地域生活実態調査の結果〈第一次報告〉」きょうされん、2012年)
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があれば、その人の年収は140万円となる。
 収入100万円以下の障害者の場合、生活保護は受給していないと考えられる。収入源の
組み合わせは
・障害基礎年金のみ(1級または2級)
・障害基礎年金2級+平均的な作業所などでの福祉的就労による就労収入
・作業所などでの福祉的就労による就労収入のみ
のいずれかであることが多いであろう。平均的な作業所で得られる就労収入は、地域やタ
イプによっても異なるが、概ね月額10,000円前後であることが多い。
 さらに、このグラフに出現している障害者の例は、障害者の全体から見て、極めて恵ま
れた一部であることを指摘しておきたい。施設も含めて一般社会で生活し、限定された範
囲で低収入とはいえ就労している障害者は、まだしも恵まれた存在なのである。
 「累犯障害者」と呼ばれる人々がいる。家庭環境に恵まれず、学校教育も含めて必要最
低限の教育を受けることができず、成人しても就労もできなかった障害者の一部は、その
ような選択へと追い詰められる。知的障害・視覚障害・聴覚障害などの障害は、情報の入
手に対するハンディキャップとなるため、障害者福祉の利用が難しい。家族などの支援が
得られる状況であったら、せめて小学校相当の教育は受けられたであろう。しかし、累犯
障害者の相当数は、文字の読み書きにも支障のある状態で成人していたりする。
 この人々は、ある時、たとえば飢えからコンビニで菓子パンを万引きしようとして、逮
捕される。再犯となれば、実刑判決を受け、刑務所に収監される。刑務所には自由はない
ものの、食事・介護・介助などが充分に提供される。短い刑期を終えて釈放されても、一
般社会で生きる術を有しているわけではない。従って、また菓子パンを万引きする。今度
は、刑務所に入るために。
 また、精神科病院・精神科病棟を中心に、「社会的入院」と呼ばれるタイプの長期入院
(概ね5年以上)患者が多数いる。2010年、精神科の入院患者は約31万人であった。うち、
長期入院患者は人数は11万5千人ほどである(「目で見る精神保健福祉」http://www.ncnp.
go.jp/nimh/keikaku/vision/pdf/medemiru7.pdf)。日本の精神科病棟数・長期入院患者数
ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか
は、人口を考慮しても先進各国に比べて多いため、長年、長期入院患者を減少させる取り
組みが行われてきたが、いまだ10万人を超える長期入院患者が存在する。その人々の多く
は、「社会的入院」患者である。
 「社会的入院」とは、治療の結果として病状が安定し、地域生活が可能な状況になって
いるにもかかわらず、精神障害者に対する家庭や地域の偏見ゆえに退院後の行き先がな
く、しかたなく長期入院を続けている状態である。なお、認知症などの高齢者も多数、精
神科の「社会的入院」患者に含まれている。
 長期入院患者たちは、退院したからといって、地域や家庭に居場所を見つけることがで
きるわけではない。もしあれば、そもそも、長期入院を余儀なくされることはなかったの
である。このため、社会復帰支援施設と呼ばれる施設が、多数、建設されている。その施
設の敷地は多く、精神科病院の敷地内である。名ばかりの社会復帰である。
 刑務所の中にいる累犯障害者たちや、いまだ精神科病棟の中にいる長期入院患者たち
は、「きょうされん」の調査の結果としても出現しない。この人々を含めれば、年収100万
円以下の障害者の比率は、さらに増大するであろう。
 経済的自立が実現しにくいことの結果として、障害者の生活保護利用率は、健常者の5
倍に達している(前述「きょうされん」調査)。
図 2 20歳以上の生活保護受給者の割合(単位:%)
障害のない人
障害のある人
0.0% 8.0%6.0%4.0%2.0% 10.0%
1.69
9.25
(出典「障害のある人の地域生活実態調査の結果〈第一次報告〉」きょうされん、2012年)
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『ライブラリー・リソース・ガイド(LRG)』第2号(2013年2月)

  • 1. LRGライブラリー・リソース・ガイド 第2号/2013年 冬号 Library Resource Guide ISSN 2187-4115 図書館システムの現在 特集 嶋田綾子(データ協力:株式会社カーリル) 知の機会不平等を解消する ために ──何から始めればよいのか 特別寄稿 みわよしこ 発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社
  • 2. LRG Library Resource Guide ライブラリー・リソース・ガイド 第2号/2013年 冬号 発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社 図書館システムの現在 特集 嶋田綾子(データ協力:株式会社カーリル) 知の機会不平等を 解消するために ──何から始めればよいのか 特別寄稿 みわよしこ
  • 3. 巻頭言 ライブラリー・リソース ・ ガ イ ド   2 0 1 3 年 冬 号 巻頭言 図書館をより開かれた存在にするために  『ライブラリー・リソース・ガイド』第 2 号を刊行することができました。これも ひとえに、創刊号が無事に船出できたことによるものです。創刊号をお買い上げい ただいたすべての方々に、心から感謝申し上げます。 さて、第 2 号は、 ● 特別寄稿「『知』の機会不平等を解消するために――何から始めればよいのか」  (みわよしこ) ● 特集「図書館システムの現在」(嶋田綾子、データ協力:株式会社カーリル) という 2 本立てとなっています。  みわよしこさんは、フリーのライターとして多方面で活躍されていますが、大き な反響を呼んだダイヤモンド・オンラインでの連載「生活保護のリアル」(2012 年 6 月∼ 12 月)で、ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。  図書館、特に公共図書館は、だれに対しても開かれた存在であり、私たちが欲 したときに、知へのアクセスを保障する社会の仕組みの一つです。その精神は、た とえば図書館法や社会教育法、ひいては日本国憲法にも読みとれます。しかし、本 当にこの国において、その精神が実体的なものになっていると言えるでしょうか。 図書館不要論も聞かれる時勢ではありますが、であればこそなおさら、いまここで 知へのアクセスの機会保障という議論と行動を考えてみたいと思います。  一面においては、きわめて重い論考ですが、ここに示された一つの現実を受け とめつつ、読みとおしていただければ、みなさんの眼前に新しい地平が広がってく るはずです。
  • 4. ラ イ ブ ラ リ ー ・ リソース・ガイド 2013 年 冬号 巻頭言  特集「図書館システムの現在」は、日本最大の図書館検索を謳うカーリルの技 術協力により実現しました。あらためて、株式会社カーリルのみなさまに御礼申し 上げます。  さて、この特集では、カーリルが保有する日本全国 6000 館以上の図書館システ ムのデータを駆使し、図書館におけるシステムの導入状況を相当な正確さで把握で きる内容になっています。従来、図書館システムの導入にあたっては、たとえば同 規模自治体での導入状況を把握することが難しく、言うなればシステム提供企業の アドバイスに準じざるを得ない状況がありました。  しかし、公的な機関が有する公共的なシステムのデータは、当然オープンである べきです。おりしもオープンデータという言葉が世間をにぎわしつつあります。公共 的なデータの開放性や透明性を高めていくことで、たとえばこのような特集が可能 になるのです。こうした文脈も含めて、この特集をご理解ください。そして、この特 集が図書館システムのよりよい革新への一助となれば、幸いです。 編集兼発行人:岡本真 責任編集者:嶋田綾子
  • 5. 巻 頭 言 図書館をより開かれた存在にするために[岡本真]………………………………… 2 特別寄稿 「知」の機会不平等を解消するために      ── 何から始めればよいのか[みわよしこ]……………………………………… 5 特  集 図書館システムの現在[嶋田綾子](データ協力:株式会社カーリル)……………………… 63 LRG CONTENTS Library Resource Guide ライブラリー・リソース・ガイド 第2号/2013年 冬号 [Case01] ベンダー別導入状況 [Case02] パッケージ別導入状況 [Case03] 公共図書館における導入状況 [Case04] 都道府県立図書館における導入状況 [Case05] 政令指定都市の公共図書館における導入状況 [Case06] 市立・区立図書館における導入状況 [Case07] 町立図書館における導入状況 [Case08] 村立図書館における導入状況 [Case09] 大学図書館における導入状況 [Case10] 専門図書館における導入状況 [Case11] 都道府県別ベンダーシェア [Case12] 都道府県別パッケージシェア [Case13] 図書館システムの変更パターン1 [Case14] 図書館システムの変更パターン2 [Case15] 図書館パッケージリスト [Case16] 人口規模とベンダーシェアの関係 [Case17] 人口規模とパッケージシェアの関係 [Case18] 分館数とベンダーシェアの関係 [Case19] 分館数とパッケージシェアの関係 [Case20] 外国人人口の割合における導入状況 [Case21] 第1次産業就業者数と導入状況の関係 [Case22] 第2次産業就業者数と導入状況の関係 [Case23] 第3次産業従事者数と導入状況の関係 [Case24] 子どもの人口割合と導入状況の関係 [Case25] 生産人口と導入状況の関係 [Case26] 高齢者人口と導入状況の関係 [Case27] 市民の平均年齢と導入状況の関係 [Case28] 昼間人口と導入状況の関係 [Case29] 人口密度と導入状況の関係 [Case30] 財政力指数と導入状況の関係 全国の図書館における導入状況 ……… 65 自治体構造による導入状況 ……………… 97 カーリルのデータにみる図書館のすがた…129 カーリルのデータにみる『生活保護手帳』…145 [Case31] 都道府県ごとの図書館数 [Case32] 移動図書館数とその愛称 [Case33] 分館数の多い図書館 [Case34] 都道府県ごとの図書館密度(10平方キロメートル あたりの図書館数) [Case35] 都道府県ごとの図書館密度(人口10,000人あたり の図書数) [Case36] 館種別『生活保護手帳』の所蔵状況 [Case37] 都道府県別『生活保護手帳』(2011年度版)の所蔵 状況 [Case38] 都道府県別『生活保護手帳別冊問答集』(2011年度 版)の所蔵状況 [Case39] 都道府県別『生活保護手帳』(2012年度版)の所蔵 状況 [Case40] 都道府県別『生活保護手帳別冊問答集』(2012年度 版)の所蔵状況 カーリルラボ ─ 学術利用トライアル募集 … 156 次号予告 …………………………………… 158
  • 7. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号 本稿について  本稿では最初に、日本に根深く存在する「知」の機会不平等が、半世紀近い過去にどの ような問題であったかを、私自身の経験を通して描く。  では、現在はどうであろうか? 結論から言うと、かつての深刻さは、ほとんど解決さ れていない。その結果として何が起こっているかについて、いくつかの事実を提示する。  最後に、この問題がどのように解決されるべきかについて述べる。一朝一夕に解決され る見通しはない。しかし、解決されなくてはならないと思う。考えられるアプローチと「最 初の一歩」を、私なりに提案する。 みわよしこ(三輪佳子) の機会不平等を 解消するために──知 何 始 よいのか か めれ ばら フリーランス・ライター。1963年、福岡県生まれ。 大学院修士課程修了後、ICT技術者・企業研究者・専門学校教員などを経験しつつ、 著述業へとシフト。2013年4月、日本評論社より書籍『生活保護のリアル』を刊行予定。
  • 8. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか プロローグ  プロの書き手になろうと考えはじめたのは、5歳か6歳くらいの時期だった。昭和44年∼ 45年(1969年∼1970年)ごろである。  当時住んでいた地域は、福岡県筑紫郡春日町(当時・現在の福岡県春日市)。広大な農 村風景の中に孤島のように出現した新興住宅地の、真新しい、しかし典型的な「安普請」 の建売り住宅が、当時の住まいであった。福岡市中心部に出るために利用することのでき るバス路線は3系統あったが、それを全部合わせても、一時間に1本あるかどうかだった。 福岡市中心部の企業に勤務するサラリーマンの父親と専業主婦の母親は、それほど不便な 場所に、やっと家を買うことができたのだった。  私には4歳下の弟がいた。両親にとっては長男である。「長男を立派に育て上げる」が、 母親の目標であった。1歳になり、歩きはじめた弟は、手当たり次第にモノを掴んだり引 っ張ったり叩いたり投げたりした。それは、1歳児がふつうに取る行動であった。弟が手 や足で力を及ぼす対象の中には、私の身体や髪の毛などが含まれていた。私は、蹴られた り叩かれたり髪を引っ張られたりした。しかし、痛いということを表情や声などに示すこ とさえ許されなかった。母親によれば、それらは男の子が立派に育つためには必要な経験 なのであり、私は「お姉ちゃんだから」、痛いとか辛いとかイヤだとか思ってもならない のであった。  「自分の受けている扱いは、なんだかおかしい」という意識が、5歳の私には既にあった。 だから、早く手に職をつけて経済的自立を達成しなくては、と思っていた。しかし、その 地域で見つけることのできる女性の職業は、学校や幼稚園の教員、保育園の保母(当時)、 町役場の職員、農協や信用金庫の職員、看護婦(当時)。教育・公共・金融・医療以外で 女性が職業を得ようとするならば、商店や小規模企業を夫と共同経営するしかない。5歳 の私は、まだ「性差別」という言葉を知らなかったが、それらの女性の職業は、どの一つ も、自分の抱えている問題から自分を解放してくれるようには見えなかった。  その時期、私は、児童書や絵本の書き手に女性の名前があることに気づいた。松谷みよ 子。あまんきみこ。石井桃子。テレビドラマのオープニングを見ていると、「脚本」とい う文字のそばにも女性の名前がある。橋田壽賀子。向田邦子。世の中には、本を「書く」 という仕事があり、そこには多数の女性の書き手がいるらしい。私も、なれるかもしれな い。なれるんじゃないかな。きっとなれると思う……。
  • 9. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  小学校に入った私は、図書室にあった800冊あまりの本を、小学1年生の間に読み尽くし た。「それも出来ないようでは、プロの書き手になどなれないだろう」と子ども心に思っ たからだ。同時に、書くことに関するセルフトレーニングを開始した。作文では、子ども 離れした文章力で大人の舌を巻かせ、同時に「子どもらしくない」という評価を受けた。 10歳前後で、小説の習作を始めた。現在の私は、ほぼノンフィクションを専門としている が、ノンフィクション・ドキュメンタリーの世界にも女性の書き手がいることには、まだ 気づいていなかった。中学時代には小説やシナリオのコンクールに応募したが、結果は出 せなかった。「原稿用紙300枚や500枚の文章を書くことができる」と自認できたことだけ が収穫だった。その後、大学進学に際しては物理学を選択し、そのまま修士課程まで進学。 修了後は企業研究者となったが、間もなく、1990年代後半の所謂「血で血を洗うリストラ」 に巻き込まれた。  1998年、私は企業研究者を続けながら、参入機会の多いICT系メディアで著述業を開始 した。2000年からは、著述業にほぼ専念している。主な守備範囲は科学・技術であったが、 2004年に運動障害のため歩行が困難になってからは、社会保障や福祉の問題に当事者とし て直面することとなった(2007年に障害者手帳を取得。現在、屋外での移動には常時、電 動車椅子を利用している)。現在は、生活保護を中心とする社会保障・科学・技術の分野 にまたがる形で、著述活動を展開している。 「大人の本」へのアクセスを求めて∼小学校時代まで  幼少期の私にとっての大きな課題の一つは、「本があって読むことのできる場所と状況 を確保する」であった。私が自発的に読み書きを行うことを、母親が好まなかったからだ。 私は子どもなりに知恵を絞り、全力で、「本のある安全なところ」へとアクセスする努力 を重ねてきた。  幼稚園以前、私が本に接する機会は、幼稚園・同世代の子どものいる家・歯科医院や小 児科医院の待合室。これで全部であった。父親の本棚には、300冊ほどのビジネス書・流 行小説・画集(父親は絵画が趣味である)があった。当時の中産階級の父親の、典型的な 本棚であろう。しかし、それらの本を手にとって読むことは困難だった。この時期に読ん だ本に、特に記憶に残っているものはない。唯一、はっきり覚えているのは、歯科医院の 待合室にあった婦人雑誌の料理記事である。ミルクゼリーとコーヒーゼリーが市松模様に 盛り合わせられているだけであったが、その幾何学的な美しさに、5歳の私は息を呑んだ。
  • 10. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか ゼリーで、こんなことができるんだ!  6歳になった私は、町立の小学校(当時)に就学した。急激な子ども人口の増大に伴い、 新設された小学校だった。図書館を設置する余裕はなく、半地下の小さな倉庫のような部 屋が「図書室」とされており、前述したように800冊ほどの書籍があった。  7歳の時、私は結核に罹患した。幸い、ごく初期であり、咳などによって結核菌を外部 へと排出する段階には達していなかった。薬物療法のみで、1年ほどで完治した。母親の 強い希望で、私は小学校に通学を続けていたが、外で遊ぶことも運動も禁じられていた。 休み時間の居場所は、図書室しかなかった。私は、図書室の書籍を全部読み尽くしてしま った。私が読むものに飢えていると知って、隣のおばさんが高校の国語の教科書をくれた。 高校を卒業した娘のものだった。現代国語・古文・漢文。教科書ガイドもついていた。私 は教科書ガイドを頼りに、古文も漢文も読めるようになった。石碑の碑文が、神社の社の 中に掲げられている額の文字が、意味のある何かとして目に飛び込んできはじめた。  小学生時代の私は、大人のために作られた本を読む機会に飢えていた。将来プロの書き 手になりたい、古文も漢文も読めてしまう小学生にとって、子ども向けの本しかない小学 校の図書室は、何とも物足りないものであった。  小学2年生の時、私が結核に罹患する少し前、住んでいた新興住宅地に公民館ができた。 そこには小さな図書室も作られた。大きな本棚があったけれども、住民が持ち寄った本が 200冊ほど置かれているだけで、閑散としていた。とにもかくにも、そこには大人向けの 本が置かれている。私は、公民館で開設される習字教室に参加し、公民館へのアクセス機 会を確保した。小学6年生の私は、その公民館の図書室で上原和『斑鳩の白い道の上に』 と出会い、歴史観の多様なありかたに激しい衝撃を受けた。どなたが寄贈されたものだろ うか。今でも感謝している。  遠い町からやってくる習字教師は、女性であった。そこにも、女性の職業人のモデルが あった。私は習字にも熱心に取り組み、高校1年生で師範資格を取得して「飯の種にでき るかもしれない何か」を手に入れたことに深い安心を覚えることになるのだが、それは先 のことである。  そのころ、春日町は春日市となった。結核から回復した私は、毎日のように、母親にモ ノサシなどでめった打ちにされたり、髪を引っ張られたり、冷たい床に何十分も正座させ られたり、食事を与えられなかったりするようになった。  小学校に図書館が出来たのは、小学4年生の時のことであった。採光のよい、広々とし
  • 11. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号 た図書館に、2000冊以上の蔵書があった。私はその新しい蔵書も、ほとんど読みつくした。 図書室時代から、図書担当の教諭たちの選書のセンスが光っていた、と今にして思う(図 書担当教諭のリーダー的存在だった佐伯先生、ありがとうございました)。身の回りのモ ノや環境は、どのように成り立っているのか。小学校の窓から見える範囲だけでもいくつ もある古墳や遺跡は、いったい何なのか。子どもたちの自然な知的好奇心を導く選書であ った。もちろん、学年別の少年少女文学全集や伝記全集も。  春日市には、小さな図書室が一つだけ、あるにはあった。2回か3回程度しか行かなかっ たので記憶が定かでないのだが、住んでいる町から道のりで5kmほど離れた市役所の中か すぐそばであった。そこに行けば、大人向けの本に接することはできた。蔵書数はどれほ どだっただろうか。1万冊はなかったと思う。夏は暑く、冬は寒かった。  片道5kmは、自転車に乗れば、どうということはない距離ではある。しかし、小学校の 校区外である。同じように校区外の公営プールに自転車で付き合ってくれる同世代の友だ ちはいても、図書室に付き合ってくれる友だちはいなかった。  小学6年生の私は、中学受験をめぐる周囲の大人たちの対立の中で疲れていた。母親は、 私立中の受験にこだわった。父親と父方の祖母は、「才走った子どもだからこそ、そんな 特別な中学校に進学させることはやめるべきだ」と考 えていた。私は、周囲の大人たちの誰もの顔を立てる ために 「力試しに受験し、行くかどうかは受かってから考え る」 ということにした。そして、私立の女子中学に合格し た。合格すると、父親も父方の祖母も、「せっかくだか ら、ぜひ進学するように」と言いはじめた。  私は正直なところ、女子校に行きたいとは思えなか ったのだが、その中学は福岡市にあった。福岡市在住・ 在学・在勤のいずれかを利用条件とする、福岡市の図 書館が利用できるということである。私は、福岡市の 図書館の魅力に惹かれて、私立中学に進学することに した。 現在の春日市民図書館サイト。10万人規模 の自治体の図書館としては、非常に充実し ている方ではないかと思われる。
  • 12. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  話を中学以後に進める前に、当時の住んでいた町の状況について、一節を割きたい。そ こには激しい格差があり、教育の機会を奪われた多くの子どもたちがいた。 格差と、奪われた教育機会  当時の春日町は、コメ・野菜、鶏肉・卵の生産を中心とする農産地であった。そこには もともと、学力増進や進学に子どもを駆り立てる空気はなかった。身体が動き、真面目に 働く態度があれば、何らかの形で食べていくことはできる。農家の子ならば、農業を継げ ばよい。商店の子なら、商店を継げばよい。そうでなくても、土木作業、建設作業など、 選ばなければ仕事だけはある。資格を得て会社勤務をしたいのだったら、自衛隊に入れば いい。頭は良いに越したことはないけれど、勉強ができることはそれほど重要ではない ……。それはそれで、首尾一貫している世界ではあった。  この状況を一変させたのは、新興住宅地の出現であった。小学校の同じクラスの中に、 貧農の子どもと比較的大規模な農家の子ども、自衛隊勤務の父親の子どもとリベラルなサ ラリーマン家庭の子ども、木工所の子どもと土地成金の子どもが入り混じることになっ た。大人も子どもも含めて、摩擦や衝突が日常的であった。  同じ校区の中に、イサミさんというお宅があった。詳しい事情は知らないが、ご両親は いなかった。20歳くらいのお兄さんを頭に、5人ほどの子どもがいた。土木作業などの仕 事をしているらしいお兄さんの日当と、住み込みの「ご飯炊き(今で言う「お手伝いさん)」 をしているお姉さんの仕送りで、小さな子どもたちの生活と通学がなんとか支えられてい た。お兄さんとお姉さんは、中学を卒業してすぐ働いていた。子どもたちは、しばしば小 学校でいじめに遭った。貧困な暮らしぶりを反映した服装、学力が低いことなどが、いじ めの口実とされたのだった。  お兄さんは休みの平日に、しばしば、朝から焼酎を飲み、泥酔して勢いをつけて小学校 に乗り込んできた。子どもたちが遊んでいる昼休みの校庭に入り込み、大声で「校長を出 せ」と叫んだ。教諭たちは、お兄さんから子どもたちを遠ざけた。男性の教諭たちがお兄 さんを囲み、話を聞き、なだめて帰ってもらっていた。お兄さんの主張の内容は「オレの 妹をいじめるな」であった。
  • 13. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  小学校の同じクラスにずっと、コンドウ君という男の子がいた。こちらも事情を詳しく は知らないが、不安定就労をしているお父さんが、コンドウ君と3歳下の妹を一人で育て ていた。お父さんは、子どもたちの生存を支えるだけで精一杯だった。「清潔な服装をさ せる」「夏は毎日入浴させる」というようなことにはまったく手が回っていなかった。コ ンドウ君兄妹の服装は、だいたい3ヶ月に1回くらいしか変わらなかった。季節の変わり目 ごとに1回だけ、新しい服を与えられる感じだった。見た目がみすぼらしいだけではなく、 異臭を放っていた。コンドウ君は、服装のみすぼらしさと異臭によって、しばしば、いじ めのターゲットになった。教諭たちは、見つけ次第、厳しく叱責した。すると、コンドウ 君の妹が学校の外でターゲットとなるのであった。それもまた教諭たちは見逃さなかった が、その次には、「コンドウ君の妹の筆箱の中の鉛筆の芯が、外からは見えないように折 られる」といういじめへと発展した。教諭たちは容認しなかったが、結局、いじめを止め ることはできなかった。  小学3∼4年生の時、同じクラスに、ハナダさんという女の子がいた。西原理恵子のコミ ック『ぼくんち』や『パーマネント野ばら』に出てきそうな、極めて大衆的なウドン屋さ んの子であった。ハナダさんは、控えめで、おとなしく、真面目で、しかし非常に低学力 で、テストの成績はいつも0点や10点、よくて20点程度だった。しばしば、テストの成績 をネタに、いじめられていた。もしかすると、軽度の知的障害を伴っていたかもしれない。  ハナダさんの状況を、クラスメートの女子たちは憂慮した。いじめの原因は、学力だけ であるように見えた。そこで、勉強会を開催することにした。会場は、それぞれの家を回 り持ちにすることとした。しかし、この試みはまったく成功しなかった。ハナダさんは、 最初の2回だけはやって来たのだが、3回目からは参加してくれなかった。そこでウドン 屋さんに行ってみると、ハナダさんは、忙しそうに手伝いをしていた。家業の貴重な労働 力として当てにされているので、勉強どころでないのである。そんな問題が、子どもたち に解決できるわけはない。だいたい、クラスメートどうしで「助けてあげる」などという 失敬な試みが成功するわけはないのである。「なんとかしなくてはいけない気がするけど、 どうやって? 誰が?」という思いが、私の中に苦く残った。    イサミさんの妹も、コンドウ君も、ハナダさんも、その後の消息は聞かない。中学の途 中で不登校になったらしいという噂を聞いてそれっきりであったり、シンナーの売人にな ったという噂を聞いたのが最後であったり、ご両親が土地を売って転居した後の連絡先が 不明のままであったりだ。「高校に行った」「立派な大人になった」という話は聞いていない。
  • 14. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか 知へのアクセスと希望を求めて∼中学時代  さて、福岡市の中学校に進学した私のその後に、話を戻したい。  私は月に2度ほど、日曜日に、福岡市中央図書館へ通うようになった。貸し出し期限は 2週間なので、月に2度は通わなくてはならない計算になるのであった。バスで20分かけ て西鉄大牟田線の最寄り駅まで行き、さらに15分ほど電車に乗って、福岡市中心部の天神 (福岡)駅で降りる。そこから徒歩約25分(当時、福岡市博多区築港本町にあった)。待ち 時間を含めると、片道に必要な時間は、約1時間30分ほどであった。蔵書数は数十万冊規 模だったと記憶している。  私は天神駅で降りると、まず、紀伊國屋書店に足を運んだ。駅すぐそばのデパートの1 フロアが、まるまる書店スペースとなっており、当時の福岡では最大の書店であった。私 は書店スペースを一周し、読みたい本をメモし、そのメモを持って図書館に行った。読み たい本を全部購入するだけの経済力は、中学生にはなかったからだ。  もっと近くに、福岡市の図書館は他にもあった。しかし、小さな図書館にない本を読み たいと思ったら、結局は中央図書館まで行くことになる。手間を一度で済ませることを、 私は往復の時間と交通費のコストを支払うことで得た。  私は中学進学直後、数学で落ちこぼれた。中学1年生 で、数学で方程式が出てきた最初、「移項」という操作 の意味がどうしても理解できず、方程式というものを理 解することもできず、一学期の期末テストで赤点を取っ てしまったのだった。算数が嫌いでも苦手でもなかった 私にとって、これは大きなショックだった。「将来はモ ノカキになりたい」と思っている中学生は、数学を諦め ても生きる道を見つけることができたかもしれない。で もなんとなく、そこで諦めてしまうと、その後、とても 大きなものを失ってしまいそうな気がした。  中学校の図書館には、たくさんの参考書があった。 それらを一つひとつ見てみたけれども、理解できる説 明はなかった。「方程式の基本のキ」というべきところ でつまづいた中学生のための参考書はなかったからで ある。 現在の福岡市中央図書館ページ。福岡市中 心街すぐそばの、非常に利便性の高い地域 にある。筆者が福岡市在学中は、福岡市 博多区築港本町にあり、アクセスは決して 便利ではなかった。
  • 15. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  中学1年生の夏休み、私は福岡市中央図書館で、教員向けの数学教育法の本を探した。 そこには、腑に落ちる説明の数々があった。方程式の場合の等号とは。項とは。移項とは。 式の操作とは。グラフ化した場合に何を表すか。意味が分かれば、あとは操作に習熟する だけである。私は紀伊國屋書店で、最も平易な問題集を買い求めて帰った。2週間後、私 はもう少し高いレベルの問題集を買い求めた。夏休みが終わるころ、中学1年生向けの方 程式の問題で解けないものは、私にはなくなっていた。  私は二学期の数学のテストで、満点近い得点をし、女性の数学教員を仰天させた。どう いう勉強をしたのかと質問されたので、やったことを素直に答えた。教員は絶句した。そ して、猫という共通の話題を通じて、教員は私と雑談をする機会を増やした。そして、将 来は理数系方面へ進学するように、私を粘り強く説得しはじめた。  数学落ちこぼれから自分を救い出すプロセスで、私は、遠山啓という名前が気になっ た。遠山啓は、戦後日本の算数・数学教育の体系化に力あった数学者である。といっても、 中学1年生レベルで読める遠山啓の数学書はほとんどない。私は、自分の読めそうな他の 著書を探した。もちろん、福岡市の図書館でのことである。遠山啓は、さまざまな教育実 践や社会的発言を活発に行っていた。私が初めて「出会った」といえる科学者は、科学の 世界に少しも閉じこもっていない数学者だった。  数学落ちこぼれからの回復を終えた私は、プロの書き手になりたいという自分の思いを かなえるために、福岡市中央図書館の中を動きまわった。そこには、倉本聰・橋田壽賀 子・向田邦子のシナリオを書籍化したものがあった。原作のある作品ならば、原作も。私 は原作を読み、シナリオを読み、記憶している限りのドラマ映像と組み合わせ、原作がシ ナリオとなって映像化されるプロセスを学んだ。シナリオライターたちのエッセイを読み、 どのようにして機会を得てプロになるのかを知った。このころ、私の「プロの書き手にな りたい」という思いは、もはや夢ではなく、必ず叶えられる将来となった。「どうすれば なれるのか」「どうすれば作品が生み出せるのか」が具体的に分かったからである。  中学2年生の時、同じ小学校から同じ中学校に進んだ同級生の一人が、長期欠席をした。 お父さんが事業で失敗し、一家で行方をくらましていたのであった。長期欠席の後、中学 に戻ってきた同級生は、公立高校に進んだ。自分の努力ではどうにもならないことがある。 中学2年生の私は、そう痛感した。
  • 16. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  私にも、高校進学時期がやってきた。私は、通っていた女子中の系列の女子高にエスカ レーター進学したいとは思わなかった。県立の、普通の進学校に行きたかった。しかし母 親が「県立高校を受けるのだったら、学区のトップ校でないと」と強くこだわった。中学 進学時点で学力選抜を受けている私立中学の生徒は、内申点では不利になる。私は、そこ そこの進学校に行ければいいと思っていたが、母親は「そんな高校に行くくらいなら、こ のままエスカレーター進学を」と譲らなかった。私は仕方なく、県立高校受験を断念した。  県立高校入試が終わるころ、私は夜中にトイレに行こうとして、母親が父親に「あの子 はずるい見地から、県立の受験を避けた」と話しているのを耳にした。私の背中に寒いも のが走った。  私は、「母親が理解できない進路を選ばなくては」と強く思った。とにかく、自分の人 生に入り込まれないようにしないと。口を開かせたら、手を出させたら、そこで終わりだ。 母親は必ず、私を自分の思い通りにしないと気が済まないのだから。  とにもかくにも、進学を機会にして福岡を離れたい。「文章の書き手になりたいから文 学・社会学」「数学や理科が好きだから理学」というような進路選択をしたら、福岡を離 れられなくなる。それなら、福岡でできるからだ。  私は、音楽系に進学しようと考えた。5歳から続けていたピアノは、相当のレベルに達し ていた。高望みしなければ、音楽系への進学は充分に叶いそうだった。といっても、演奏 家になりたいとは思っていなかった。ドビュッシーのように、音楽の世界にイノベーショ ンをもたらすような作曲家になろうと、自分の才能の程度も可能性も顧みずに妄想した。  中学3年生の後半から、私は激しいいじめに遭いはじめた。精魂かけて描き上げた写真 のような風景画を美術教師が評価して、廊下に掲示した。数日後、その絵は姿を消し、二 度と私の前に現れなかった。確実に焼かれるような場所に、誰かが捨てたのだろう。音楽 のテストが、カンニング疑惑によって0点にされた。机に解答が書いてあったからだそう だった。それを私が書いたのかどうかは調べられることがなかった。騒ぎ立てはじめた生 徒の一人が、その学校の教員の子どもであるという理由で、音楽教員たちは「あなたがそ んなことをする理由はないと、先生たちも思うんだけど、しかたない」と言いながら、そ の措置を取った。  将来、音楽の世界で活躍する自分を妄想することは、私にとっては必要なことだった。 あのカンニング疑惑が嘘だったということを、将来が示してくれるかもしれない、と思え たからだ。
  • 17. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号 「ここじゃないどこか」へ飛び出す力を求めて∼高校時代  高校時代の記憶は、霧がかかったようにぼんやりしている。  中学で仲良くしていたクラスメートの多くは、県立高校に進学した。十代後半の女子の 緊密な人間関係の中に、私は居場所を見出すことができなかった。手をつないでトイレに 行くようなグループのいずれにも属していなかった私は、いじめの格好のターゲットにな った。登校すると概ね毎日、下足置き場に上履きがなかった。上履きは、下足置き場近辺 のゴミ箱の中にあったり、どこにもなかったりした。教室に着くと、椅子の上に画鋲が上 向きに置かれていた。それをつまみあげて壁に刺して座ると、翌日は、画鋲がセロテープ で椅子に貼り付けられていた。机の中に辞書などを置いておくと、必ずといってよいほど 紛失し、数百メートル離れたベンチの下から出てきたりした。私は机の中に何も置いてお かないようになった。カバンは、辞書や教科書で膨らんでいた。すると、「ブタカバン」 と嘲られた。机の中には、3日にあけず、紙が入れられるようになった。利き手でない側 の手で書かれたと思われる文字が並んでいた。内容は、私に対する誹謗中傷であった。  それらのことを私が苦情として述べ立てると、私の人格が問題にされた。そこで根拠と されたのは、中学3年生の時のカンニング事件であった。まったくの冤罪なのだが、味方 は一人もいなかった。  私は高校時代、朝、教室に入るときの「おはよう」と、帰る時の「さようなら」以外に、 会話らしい会話をした記憶がほとんどない。朝夕の挨拶は、「こちらから仲間はずれにす るつもりはない」という意思表示として行なっていた。返事は、ほとんどなかった。    当時の私は、朝、学校に行くと、授業時間中は概ね居眠りしていた。昼休みは弁当を3 分で食べて音楽室にダッシュし、昼休み中、ピアノの練習をしていた。放課後も、合唱の 伴奏を頼まれたりしない限りは、下校時間まで音楽室でピアノの練習をしていた。帰宅す ると、家の手伝いをしたりもしつつ、夜10時くらいまで、とにかく音の出せる時間帯はピ アノの練習。夜間は作曲の課題に向かい合う。息抜きに、5教科の勉強も少しだけ。明け 方に2時間程度、横になってまどろむ。東京芸大で作曲を学びたいというのが当時の希望 だったので、その目的に合わせた生活だった。母親が入院したりすると、一家の家事の全 部が自分にかかってきた。他にやる人がいなかったからである。それでも、2週間に1度の 福岡市中央図書館通いは続けていた。本がたくさんある静かな空間にいる時間がなければ、 正気を保てなかった。
  • 18. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  私が高校に入ると間もなく、母親は私に対して 「高校を退学させて工場で働かせる」 と言うようになった。私が自分の考えや意志を持っていることが、母親にとっては自分へ の反逆と映っていたようである。私が寮のある工場に監禁されて労働を強いられたら、親 のありがたみが分かり、自分に服従するようになるだろう。それが、母親の希望であった。 これは私の推測ではない。母親は事実、3日に1回くらいの頻度で、このとおりの言葉を口 にしたのである。  私は、家出と自活の方法を真剣に調べはじめた。小学校時代から調べていたのだが、小 学生・中学生には、実際に実行可能な手段は非常に少なかった。しかし高校生の年齢なら ば、働くことができる。このような高校1年生の春、私は習字の師範資格を手にした。そ の書道会では、高校1年生から師範資格を得ることができたが、その高校1年生の最初の検 定で合格した。その直前は、半紙1000枚を10日ほどで消費するような練習をした記憶があ る。このことが、私にとって、どれほどの落ち着きと希望をもたらしてくれたかは、描写 しがたい。家出した後、売春でも、悪条件のアルバイトでもなく、低水準ながら、既に一 定の職業能力のある職業人として自活できる可能性が生まれたのだった。  私はこの現実から逃れるために、ドビュッシーの音楽へ、より深く耽溺した。ドビュッ シーの音楽をより深く知りたくてたまらなかった私は、ある時、ドビュッシーが生涯に完 成させた唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」をFM放送で聴いた。激しく惹かれた私は、 LPレコードと楽譜を入手した。LPレコードを傷めないようにカセットテープに録音し、そ のカセットテープが伸びてワカメのようになるほど聴き込んだ。福岡市中央図書館まで出 掛けない日曜日を、そのための時間に充てた。3時間のオペラを、1日に2回、時によって は3回も聴いた。そのうちに、一度は舞台上演に接してみたくなった。しかし、非常に上 演機会の少ないオペラである。現在までの日本での上演回数は、コンサート形式による上 演も含めて、おそらく30回未満であろうと思われる。私は、「せめて文字による記録を」と、 福岡市中央図書館の参考資料室を漁った。昭和33年(1958年)に行われたという初演に関 する記事を読みたかったのだが、見出すことができなかった。西日本新聞だから掲載され ていなかったのか、その時期の縮刷版が置かれていなかったのか、どちらであったかは覚 えていない。すべての本・雑誌・新聞が残されているという「国立国会図書館」が、私の 憧れの場所になった。いつか、そこまで、行きたい。
  • 19. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  高校2年生ごろから、母親は私に対して、「将来は専業主婦に」という望みを顕にしはじ めた。いつの間にか、「工場で働かせる」とは言わなくなっていた。  当時の私の学業成績は、学年上位10%∼40%くらいの間をうろうろしていた。定期テス トでは、真面目に勉強すればよい成績が取れるのだが、すると母親が「あんたは、何をし ても、何にもなれん、親の言うことを聞かないから、将来は恐ろしいことになる」と言う のだった。そこで私は、「よい成績は母親を機嫌悪くする」と学習することになる。次の 定期テストでは、試験勉強を一切しないでおく。すると成績は落ちる。そうなればそうな ったで、母親は「親の言うことを聞かない罰」と怒る。おそらく、成績が問題なのではない。 母親は、私の成績が外聞悪くない程度にほどよく、しかし、職業キャリアにつながるよう な進学は不可能な程度に悪くあってほしいのだろう。  母親は、さまざまな機会をとらえて、私に「将来は専業主婦になる」と明示したり暗示 したりした。ある時、「美容院に行ったら、そこに占い師がいて」と話しはじめた。占い 師によれば、私は将来、ごく普通の結婚をして、ごく普通の専業主婦になるのだそうだっ た。  母親は、「将来は専業主婦になるのだから」と、「訓練」を始めなくてはと言いはじめた。 母親はまず手始めに、私に与えられていた勉強スペースを取り上げ、台所の隣の暗く冷た い部屋へと移動させなくてはならない、と主張した。高校にだけは通わせてやるが、勉強 も習い事もすべて取り上げ、住み込みの召使のようにこき使う。そうすれば、よい嫁にな る。それが母親の主張であった。しかし父親は、それに賛同しなかった。父親は私の味方 であったというわけではないのだが、私の学業成績がそれほど悪くないので、短大ではな く普通の四年制大学に進学させたいと考えていた。  ここで、父親はどうしていたかについて、一言述べておきたい。  父親は、多忙なサラリーマンであった。朝は子どもたちが学校に登校した後で起き、夜 は日付が変わってから帰宅する毎日であった。土曜日・日曜日・年末年始も、在宅してい ないことが少なくなかった。しばしば、泊まり勤務もあった。「家庭にいない」という形 でよくない状況の維持に貢献していた、とも言える。  母親は、父親がいる時には、私に対して特におかしな言動は取らなかった。しかし父親 は、母親が私に対して虐待めいたことをしているのを、うすうす感づいていた節がある。 父親は「長女だから、そういう立場に置かれやすい」と言い、同時に「長女だから、不満 を持ってはならない」とも言っていた。いまだに、私には理解できない。最大限に好意に 解釈すれば、多忙な仕事・母親と私の関係以外にも紛争の多い家庭の状況に対応するだけ で手一杯で、それ以上の問題を抱えたくなかったのであろう。
  • 20. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  私は、「音楽系への進学では足りない」という危機感を抱いた。どのような意味でも、 母親の望みの実現に結びつかないような進学をしなくては、私は職業生活の入り口に立て ないであろう。音楽系では、結婚のハクに使われる形で終わってしまいそうだ。  高校3年生の1学期、決定的なことが起こった。私の作曲の指導者が、 「東京芸大作曲科なら二浪が必要。芸大にこだわるなら楽理科に、作曲にこだわるなら愛 知県立芸大か京都市立芸大にしなさい」 と宣告したのだった。私はその場で「作曲を選びます」と答えた。今にして思えば、楽理 の研究者という進路は、私に極めて適したものであったと思う。しかし当時、その判断が できるほどには楽理を知らなかった。  帰宅した私は、作曲の指導者の言葉を母親に告げた。すると母親は、 「そんなワケの分からない大学に、なんで行かせなきゃいけないの」 と叫んだ。どちらも、入るのがそれほど易しい大学ではないのだが、母親にとっては「ワ ケの分からない大学」なのであった。私はその瞬間、音楽系への進学を断念する決心がつ いた。そして、高校3年生の7月に「理転」した。さまざまなことに関心のあった私は、物 理を選ぼうと思った。自分の将来がどうなるのかは分からないが、物理なら、どのような 将来にもつないでいけそうな気がした。言い換えれば、「つぶしが効く」ということである。  しかし、受験勉強は捗らなかった。私の通っていた高校の進学率は、昭和50年代の当時 すでに90%を超えていたが、半数は、系列の女子短大への進学だった。中学・高校・短大 をその学園で過ごし、好条件で腰掛けOLを3年程度経験し、その間に条件のいい結婚相手 を見つけて奥様に。その高校は、そう望む親と娘が選ぶ学校であった。理科や数学の進度 は、概ね1年分、通常の普通科高校より遅れていた。私は数学IIIを習うことができず(開講 されていたが、内容はほぼ数学IIBであった)、物理IIは開講されない高校から、進学校出身 者と同じ条件で、理学部物理学科を目指そうとしていたのだった。  高校3年生の夏、私は、「とにかく現状を把握しないと対策もできない」と考え、全国模 試を受験しようと思った。2週間に1度、福岡市中央図書館に通う習慣は、その時にも続い ていた。いつものように、図書館に行く前に紀伊國屋書店に寄り、申し込みをしようとし た。しかし、財布の中にあったお金は、受験料に足りなかった。意気消沈した私に、顔な じみの店員は、近くの予備校の特待生試験の存在を教えた。福岡市中央図書館の近くにあ った予備校だった。私は、受験料無料の特待生試験を申し込み、受験して、合格した。
  • 21. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  私はこの予備校に、その後2年半も、特待生としてお世話になることになった。受験や 進学に適する家庭環境になかった私は、予備校の教員たちの理解と支援、福岡市中央図書 館にあった多数の本による勇気づけにより、東京の大学への進学を実現させることができ た。 次の一歩への歩みは、いつも図書館とともに∼大学入学からライターとなるまで  私は東京理科大・理学部第二部物理学科に進学した。予備校の教員たちに知恵を授けら れ、親に内緒で受験しておいたのだった。福岡の大学には白紙答案を提出した。  どうしても帰りは遅い時間になるので、大学の近くにアパートを探した。新宿区中町に あった、家賃3万円・トイレ共同・風呂なしの木造アパートで、私は東京での生活を開始 した。これで私が、原家族での性差別や母親の侵入から自由になれたわけではなく、苦し められ続ける状況はその後25年ほど続くことになったのだが、本稿ではそのことについて は詳述しない。  徒歩1分ほどのところに、新宿区立中町図書館があった。平日の昼間にも、そこには真 剣に学ぶ大人たちの姿があった。おそらく、何かの研究をしていると思われる人たちが、 朝から晩まで真剣に机に向かっていた。当時の東京理科大(神楽坂キャンパス)の図書館は、 私語が非常にうるさく、クラスメートがやってきては普通の大きさの話し声で雑談を始め るので、まったく勉強に適していなかった。私は中町図書館や、大学すぐそばのハンバー ガーショップ「ウエンディーズ」で勉強した。ウエンディーズでは、勉強をする目的で大 学に来ている数少ないクラスメートと一緒にテーブルを囲み、雑談したい人の入り込む余 地をなくすことができた。勉強の仲間が欲しい時には、そうした。  大学2年生の時から、私は研究所に職を得た。最初は、国家プロジェクトで作られた研 究所だったが、大学3年生の年度末に解散が決定した。私は上司のあっせんで、大学4年生 の時はNTT基礎研究所(武蔵野)に勤務していた。  NTT基礎研究所(武蔵野)には、巨大な図書館があった。「工学系書籍・雑誌では東洋一 の規模」ということであった。大きめの学校体育館程度の広さの図書館に、床から天井ま で、聞いたこともない名前の学術雑誌が製本されて並んでいる。それは、圧倒されるよう な風景だった。私は、この「論文読み放題」という恵まれすぎた環境のもと、研究者を目 指そうと大学院修士課程を受験し、合格した。
  • 22. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  憧れの国立国会図書館のすぐそばまで来たのではあったが、実際にそこに足を踏み込ん でみる時間はなかった。昼間は仕事、夜は大学、夜間は勉強やバンド活動やスポーツ。私 は忙しすぎた。  1990年、バブル経済絶頂期に修士課程を修了した私は、苦労らしい苦労をすることもな く電機メーカーに就職し、企業研究者となった。専門は、半導体に関する各種計算機シミ ュレーションであった。そこには小さな図書室があったが、調べ物の役に立つ場所ではな かった。1960年代や1970年代の専門書が数多くあり、史料としては役に立ったが、最新の 技術・研究情報は非常に少なかった。  私は就職と前後して、現在も住む東京都杉並区に転居した。図書館は徒歩圏に3館。自 転車を利用すれば5館が利用可能であった。いつの間にか、図書館は、「行くために苦労し なくてはならないところ」ではなく、「あってあたりまえ」の存在になっていた。  企業研究者時代の私は、相当数の専門書を自腹を切って購入していた。典型的な性差別 に遭っていた私は、名刺の印刷・書籍の購入など些細なことがらの数々で「理由をつけて 繰り延べられたあと結局は叶わない」という扱いを受けていた。会社の予算を当てにして いたら、必要な書籍を手にすることはできない。会社でそのような書籍や雑誌を手にして いたら、上司から警戒のまなざしで見られ、やはり読むことはできない。研究キャリアを 諦めたくなかったら、休日に、自腹で購入した書籍で勉強をするしかなかった。  しかし、高価な専門書を必要なだけ購入するのは、容易ではない。私は、杉並区立図書 館に購入をリクエストした。まだ予算が比較的潤沢だったので、私以外に読む人のなさそ うな書籍でも、たいていは購入された。このことが、私の目の前をどれほど明るくしてく れたか。会社がどうだろうが、上司がどうだろうが、まだ、道は閉ざされていない!  逆境は逆境でも、あがくことがまだ可能だった逆境の日々は、1997年7月のある日、終 わりを告げた。上司が、会社の上層部に対して「三輪さんが会社を転覆しようとしている」 と話したからだ、と聞いている。会社・組合の総力をあげた職場いじめが始まっただけで はなく、私の生活圏・交友・私生活などすべてを含めた、監視と干渉の網の目の中での圧 迫。いつ、どこまで、どのような結果をもって終わるのか、想像のしようもない。あがく ことさえ困難な日々が始まった。私が2000年にその会社を退職し、2002年、内縁関係にあ ったが1997年以後は私への攻撃の最先鋒となった同僚と別れてからも、その監視や干渉は 続いた。続くべき理由が何もないにもかかわらず、続いた。2013年現在も、まだ「終わっ た」と確信することはできていない。
  • 23. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  話は前後する。私は1995年ごろ、「この会社に長く勤務し続けることは無理だろう」と 思っていた。性差別主義的な体質だけではない。バブル終焉とともに始まった苛烈な人員 削減で、中高年社員たちが会社から消えた次に、女性専門職・女性総合職がターゲットに されはじめたからだった。1995年以前も、私の職場環境は決して良かったわけではないが、 体質の古い会社に見られる典型的な性差別の範囲にとどまっていた。しかし1995年以後は、 明確に「辞めさせるためのいじめ」という様相を帯びた。  いずれにしても私は、次の職を探す必要があったが、同じようなメーカーに転職したい とは思わなかった。  当時、電機連合に所属する大手メーカー間では、協定によって、同業他社への転職は不 可能な仕組みが作られていたため、望んだとしても転職はできなかった。私は、自分の従 事していた業務を専門とする外資系企業への転職も検討したが、当時、それらの企業は、 相次いで日本拠点を閉鎖して撤退しようとしていた。顧客である日本の電機メーカーの業 績が悪化していたからであった。  私は、子どものころの夢であった「プロの書き手になる」を、実現しようと思った。出 版業界とコネクションを持っている人と出会うたびに、その希望を語ってみた。  ある人は、新聞・雑誌への投稿を勧め、「掲載される確率が80%を超えたら、プロのラ イターとしてやっていくにはどうすればいいか、きっと分かるよ」と言った。私は実行し てみた。間もなく、掲載される確率は80%を超えた。確かに、プロの書き手が報酬をいた だけるゆえんは、よく分かった。80%という掲載確率は、その媒体の性格を知り、その媒 体の読者を知り、掲載される投稿の傾向を知り、その範囲で自分の書けることを書くこと によってしか実現できない。これは、プロの書き手であれば誰しも実行しなくてはならな いことである。しかも実行し続けるのは容易ではない。媒体も読者も変化していくからだ。  ある人は、コンテストへの応募を勧めた。私は入選し、新しい実績を一つ積むことがで きた。  ある人は、私の書けそうな内容に関して、書き手を求めている編集者を紹介してくれ た。単発記事を数本書くうちに、連載の話が飛び込んできた。連載を続けていくうちに、 特集記事やムックでの執筆の話もいただけるようになった。  自分でも、新規媒体の開拓は続けていた。自分の仕事の大半がテクニカルな記事で占め られている時期には、エッセイの仕事を探した。コアなエンジニアを対象とする媒体ばか りで仕事をしていた時期には、一般ユーザー向けの仕事を探した。  なぜ、そんなことができたのか。たくさんの図書館があったからだ。  勤務先の貧弱な図書館では、私が書こうとする記事の下調べは、到底不可能だった。私
  • 24. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか は『東京ブックマップ』を片手に、東京の数多くの専門図書館や国立国会図書館へと足 を運ぶようになった。数多くの雑誌、数多くの書籍、それらを発行している出版社。私が 一つの分野に安住してしまおうとすると、本や雑誌のどれかが、「そんなことでいいのか い?」と話しかけてくるような気がした。  いつの間にか私は、その世界のどこかで生きている自分の将来を、まったく疑わなくな っていた。2000年、私は電機メーカーを退職した。不安は、まったくなかった。  以来12年、紆余曲折や浮き沈みはあるものの、私はライターとして、生計を立てること を続けてこれている。 私にとって、専門知とは?∼大学図書館との出会い  2007年4月、私は筑波大学大学院数理物質科学研究科・博士後期課程に進学した。中断 したままの研究への思いが、止みがたかったからだ。同年7月、私は身体障害者手帳を取 得した。2004年に運動障害が始まって以後、どのような障害者福祉の恩恵を受けることも なく、ただ障害によるハンディキャップを背負いつづけるだけの状況が続いていた。身体 障害者手帳は、その状況から、私を解放してくれるはずであった。  しかし実際には、身体障害者手帳取得は、生存のための闘いのスタートラインに立つこ とに過ぎないのであった。ヘルパー派遣(介護給付)も、車椅子などの補装具の交付も、 何もかもが申請によって行われる。そこには、いわゆる「水際作戦」もある。「水際作戦」 とは、相談を名目として申請を行わせない対応である。「水際作戦」に屈せずに申請した としても、申請から給付・交付までの道のりが平坦であることは稀で、結局は交渉力勝負 であったり、情報戦であったりする。  さらに、障害者福祉をめぐる事情は、2000年以後に二転三転している。2002年に支援費 制度、2006年に障害者自立支援法。少し前の書籍が、まるで役に立たない。この分野を専 門として最新情報にキャッチアップしつづけている人々の助力がなければ、事実上、何も できない。  私は、福祉事務所に紹介された介護事業所のヘルパーに暴言・暴行を受けたり、同じく 福祉事務所に紹介された訪問医療クリニックの医師・作業療法士などにハラスメントを受 けたり、という泥沼の中で、障害者運動家たち・障害者支援を専門とする弁護士たちと出 会った。彼ら彼女らの応援のもと、身体に適した車椅子・充分な時間数のヘルパー派遣な どを得ることができるようになった。2010年のことであった。大学院博士課程は、研究ら
  • 25. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号 しいことが何もできないまま、研究室でのハラスメントに耐えかね、2012年に退学した。 生存・生活が危機的である状況で、研究ができるわけはないのである。  では、大学院博士課程への進学は無意味だったのか。私は「概ね無意味だった」と思っ ているけれども、一つだけ、感謝したい出会いがある。筑波大学附属図書館との出会いで ある。  筑波大学附属図書館は、私が初めて経験する、大学図書館らしい大学図書館だった。文 系学部をもたない東京理科大の図書館には、少なくとも私が在学していた時期、人文科学 系・社会科学系の蔵書は非常に少なかった。総合大学である筑波大学の附属図書館には、 極めて幅広い分野の書籍や雑誌があった。  障害にも、障害を抱えた状況での研究にも理解がなく、それどころかハラスメントに遭 うような所属研究室で、私は文字通り辛酸を舐めた。本も論文も「読めていない」「読め るわけがない」と指導教員に言われた。そんなことが連続するうちに、私は英語の専門書 や英語の論文どころか、日本語で書かれた一般の新聞も雑誌も読めなくなった。文字も文 章も追うことができるし、意味も分かる。でも、読めていないのではないか。読めている とすれば、指導教員の主張が誤っているということになるのだから……当時の私は、その ように考えていた。指導教員の主張に異を唱えるなど、心の中だけでも、恐ろしくてでき なかった。  ましてや、読めないのに書くなんて。この時期は、大学院進学前から決まっていた連載 を継続する以外には、書く仕事はしていなかった。それは、降板するわけにはいかないか ら、継続していたのであった。毎回、恐怖に駆られながら原稿を書いていた。指導教員が どういう反応をするかを考えただけで、引き裂かれるような気持ちになった。書きたくな い。でも、書かなくては。編集者も読者も原稿を待っている。その結果、研究室でどうい うことになるかは、ともかくとして。  自殺を本気で考えたことも、一度や二度ではない。研究室の学部4年生に「あれ」「それ」 などと呼ばれたこともある。50歳近くにもなって、そんな目に遭うなんて。私は、自分が 生まれてきたこと、生きながらえていることが間違っているから、そんなことをされるの だと思った。なお、この学生は、著作権法を理由として、私に研究資料を渡さなかったこ ともあった。電子データ化もその送付も著作権法で禁じられているから、必要だったら東 京からつくばまで取りにくるべし、というのであった。2010年のことであった。私は著作 権法を調べ、その言い分にまったく根拠がないことを電子メールで指摘した。その電子メ
  • 26. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか ールは、指導教員にも同報した。しかし、返事はなかった。私は、その研究資料を得るこ とができないままであった。  そんな大学院生活の中で、私はしばしば、図書館へと逃げ込み、図書館の多目的トイレ の中で、黙って涙を流した。落ち着いてからトイレを出て、図書館の多様な書籍や雑誌を 眺めていると、 「世界のどこでも、どのような形でも、自分が生きていけないということだけはないので は?」 という思いが、なんとなく、沸き上がってくるのであった。私はなんとか、死なずに踏み とどまることができた。そして翌週、「図書館にだけは行こう」という思いだけで、つく ばを訪れた。  2010年4月、私は大学院を休学しはじめた。その時の私は、大学の対応が後手に回りや すいゴールデンウィーク期間を狙って、場所と日時を予告した上、筑波大学の学内で自殺 しようと考えていた。気がかりは、10歳を過ぎていた2匹の猫の行く末であった。私は、 猫を安心して託せる先を探したが、思うに任せず、そのうちにゴールデンウィークは過ぎ てしまった。そして5月中旬、猫の1匹が体調を崩した。もう1匹ともども、高齢期の猫に 多くみられる慢性腎不全に罹患していた。  私は、「猫たちを守らなくては」と思った。私が望んだから、2匹の猫たちは私の家族に なったのである。終生、幸せと健康を守るのが、私の義務ではないか。しかし猫たちは、 それまで健康そのものだった。私には、猫の病気について知る必要がなかった。猫の腎臓 がどこにあるのかも知らなかった。まず、杉並区の図書館に向かい、猫の病気に関する書 籍を、かたっぱしから読んだ。概ねのことは分かった。でも、もっとくわしく知りたい。 くわしく知って、治療に主体的に関わり、飼い主としてできるだけのことをしたい。「概 ね」では物足りない。  私は、生物学の専門家でもある猫愛好家仲間から、猫の慢性腎不全に関する論文の情報 を得た。筑波大学附属図書館の電子ジャーナルにアクセスし、その論文を読んだ。さらに、 関連しそうな論文も読んだ。基礎知識の不足は、杉並区の図書館では補えなかった。私は ときどき、東京大学駒場図書館にも通うようになった。論文が英語で書かれていることも、 私に生物学系の知識がまるっきり欠落していることも、まるで障害にならなかった。分か らなければ、調べればいいのである。  疫学の論文が、動物内科学の論文が、私を、猫たちを助けてくれた。「現状は何なのか」 「これからどうなりうるのか」を知るには、それで充分だった。「では、どうすればいいの
  • 27. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号 か?」は、経験を積んだ獣医師の専門性に期待するしかないところである。飼い主として 可能な限りで勉強をする私の態度は、獣医師との緊密な協力・信頼関係を築くのにも、大 いに役立った。  気がつくと、頭の中で「読めていない」と言い続けていた指導教員の声は、まったく聞 こえなくなっていた。代わりに、怒りをギリギリのところで抑えている爆発寸前の表情が 見えるようになり、現在に至っている。今でも、恐怖を感じる。その恐怖感をねじ伏せな がら、私は日々、さまざまな文献に接している。  猫たちの闘病は、現在のところ、非常によい成績を収めている。予想外に、長期にわた りそうだ。これからも支えるためには、しっかり稼がなくては。その思いが、私に「指導 教員の爆発寸前の顔」への恐怖をねじ伏せさせている。  休学と短期の復学を繰り返していた期間に、私は一回、研究室を異動している。新しい 研究室は、教員たちも学生たちも大きな問題がなく、比較的円満に運営されていた。しか し私はすでに、「元指導教員のいる筑波大学の構内にいるだけで怖い」というほどの状態 になっていた。いずれにしても、そこで研究を続行することは、不可能であった。  2012年9月、私は大学院を退学した。大学図書館にも電子ジャーナルにも、容易にアク セスすることはできなくなった。専門知の力や必要性を感じていても容易にアクセスでき ない人々の悩みが、また私の現在の悩みでもある。考えてみればゼイタクな悩みである。 私が専門知の力を知っているのは、曲りなりにも高等教育の機会に恵まれたからに他なら ない。  では、教育の機会、知へのアクセスの機会に恵まれない人々にとって、問題は何だろう か? 識字率が低いとされる発展途上国の話ではない。明治5年、学制序文で「邑(むら) に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と教育機会保障を志す以前の日本の 話でもない。現在の日本の話である。 義務教育というゼイタク∼障害児とその親たちの現在  「義務教育を受けることもできない子どもたちが、現在の日本に、たくさんいる」と言 ったら、驚かれるだろうか? その一つの類型は、障害児たちである。
  • 28. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  1979年、障害児の就学猶予・就学免除制度が、原則として廃止された。  これらの制度は、重度障害児・重複障害児の親に対して、子どもの義務教育時期をもう 少し年長になってからにすることを許可したり、義務教育を受けさせる義務そのものを免 除したりするものであった。重度・重複障害児の親にとって、子どもに義務教育を受けさ せることが重い負担であると認識されていたのである。このことは、障害児を含むすべて の子どもに対し、教育の機会を保障したであろうか?  答えは、否。  34年後の現在も、その状況は続いている。就学できるということは、通学できること・ 学校生活を送れることを意味しない。通学や学校生活への支援は、現在も決して充分では ない。通学できなければ、就学できたことの意味はない。通学できても学校生活に必要な 支援が充分に得られなければ、通学させることが生命にかかわるリスクをもたらすかもし れない。たとえば、痰の吸引などの医療的ケアが必要な子どもに対し、必要なケアが与え られなければ、その子どもは学校生活を無事に送ることができない。  状況は、少しずつは好転してきている。しかし現在もなお、充分ではない。 「日本のどこの、どのような家庭に生まれた子どもでも、障害があっても義務教育だけは 不足なく受けられる」 という状況には、まだまだ、ほど遠い。  障害児が充分な教育を受けられるかどうかは、献身的かつ充分な経済力を持つ親に恵ま れるかどうかにかかっている。現在もまだ、通学も学校生活支援も、親が頼みなのだ。  では次に、教育基本法を見てみよう。障害児の教育機会に関係しそうな記述は、どのよ うになっているだろうか? 新旧教育基本法は、障害児の教育機会をどう定義したか  1947年に施行された教育基本法(旧法)によれば、 第三条(教育の機会均等)すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会 を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位 又は門地によつて、教育上差別されない。
  • 29. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号 2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な 者に対して、奨学の方法を講じなければならない。 とある。障害児も含めた教育の機会均等は、この時に明文化された。「能力に応ずる教育」 として、障害児は盲学校・聾学校・養護学校で教育を受けることとなった。重度・重複障 害児に対しては、就学猶予・就学免除という形で、教育の機会が与えられない状況が続い た。その状況も、1979年には消滅した、はずである。現在、障害児教育は「特別支援教育」 と名を変え、障害児教育の場の多くは「特別支援学校」と名を変えているが、障害に応じ た教育を行うことが原則となっている。  ちなみに、教育基本法(新法・2006年施行)では、上記部分に該当する部分は、以下の ようになっている。 (教育の機会均等) 第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなけれ ばならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別さ れない。 2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受け られるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。 3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難 な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。  旧法との大きな違いは、第2項が含まれたことである。「教育上必要な支援」は、通学支 援も学校生活に関するさまざまな支援も含みうる、と考えることができる。いまだ具体性 を大きく欠いてはいるものの、非常な前進である。それでは、第2項は現在、どのように 実現されているだろうか? 教育基本法(新法)が成立してから、2013年は既に7年目と なる。すべての地域において、障害児の通学や学校生活支援が充分に行われている、と期 待したいところである。しかし、現状は、その期待の実現には程遠い。 難病女性:千葉→富山転居、学業に支障 自治体により対応に差「同じ支援を」 毎日新聞 2013年1月5日 東京朝刊  一人では立ち上がることができない難病を患いながら千葉市の福祉サービスを利用して 高校を卒業し、昨年4月に富山大に入学した女性(20)が、地域間格差により大学のある
  • 30. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか 富山市で支援を受けることができなくなった。通学だけでなく、キャンパス内でも両親が 付き添わなければ大学で学べない状況が続いている。女性は「地域格差なく、全国共通の 支援を受けられるようにしてほしい」と訴えている。【中川聡子】  女性は3歳のころ、体の筋力が衰える難病「先天性筋ジストロフィー」と診断された。 現在は呼吸器をつけて電動車いすで移動する。一人では立ち上がれず、トイレには最低2 人の介助が必要だ。  千葉市では、障害者自立支援法に基づく市の移動支援サービスが高校から受けられる。 女性はこの制度を利用して、校内で市の介助サービスを受けていた。 自立支援法は、障害者の「居住地」の自治体がサービスを提供するかどうか決定すると規 定している。女性は昨春、富山大に合格、両親とともに富山市に転居し、市に同法に基づ く支援サービスの利用を申し込んだ。  だが、市側は「通勤や通学のような年間を通じた長時間・長期利用はできない」とした 市の実施要項に基づき、サービスを提供しないことを決定。通学時も学校にいる間も支援 を受けられなくなった。自費でヘルパーを頼んだ場合は1日2万円近くかかるため、両親が 通学に付き添い、大学内でも女性を介助することになった。  女性は、夏休みや冬休み期間は千葉市の実家に戻って病院でリハビリをしている。1年 のうち5カ月程度は千葉市で過ごすことになる上、住民票も移していないため、千葉市に 対し富山大の通学についても従来通りの支援を求めた。だが、市障害者自立支援課は「富 山の大学に通う学生の『居住地』は、千葉市とは認められない」として応じなかった。 両市の決定を受け、富山大は大学の予算で昨年10月から週3回、昼休みのみにヘルパー2 人を雇い、女性を支援しているが、2月までの「試験的措置」で、来年度の対応は決まっ ていないという。  両親は「自治体によって支援の有無が左右される法制度は納得できない」と嘆く。女性 も「大学にいる時だけでも両親に負担をかけず学校生活を送りたい。このままでは障害者 は支援してくれる自治体を出ることができず、進学も就職も選択肢がなくなってしまう」 と訴えている。  なぜ、このようなことが起こってしまうのだろうか? 本節では以下、障害児(者)の 通学支援の現状について述べたい。  公的障害者福祉には、「身体介護」「家事支援」とともに、「移動支援」というメニュー
  • 31. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号 がある。しかし現在、自治体の多くで、この移動支援は、通学・通勤・営業には使用して はならないことになっている。「公共サービスを障害者本人の資産形成に利用させてはな らない」というのが、その理由である。  筆者の住む東京都杉並区の「杉並区障害者等移動支援事業実施要綱 (http://www2.city.suginami.tokyo.jp/library25/41990949774800040000 /4199094925030 0020000/41990949250300020000.html)」 には、その旨が下記のように明記されている。 第3条 事業は、障害者等が次のいずれかに該当する外出の際にガイドヘルパーを派遣す ることを内容とする。 (1)官公庁等への届出、冠婚葬祭等、社会生活上必要な外出 (2)趣味の活動、映画鑑賞及び散歩等、余暇活動を目的とした外出 (3)その他区長が特に必要と認める外出 2  ガイドヘルパーの派遣は、1回につき、原則として1日の範囲内で用務を終えるもの に限る。 3  第1項及び前項の規定にかかわらず、次の各号のいずれかに該当するときは、原則と して事業の対象としない。 (1)営利を目的とするとき。 (2)通所、通学、通勤又は通院等を目的とするときであって、通年かつ長期にわたると き。 (3)政治的又は宗教的な活動を目的とするとき。 (4)公序良俗に反する目的のとき。 (5)その他区長が不適当と認めるとき。  問題点は数多い。障害者に必要な外出の範囲が、あまりにも一般の人々に対して狭く設 定されていること。一般の人々であれば行う可能性のある活動と付帯する「外出」を、一 般の人々と同様に保障していないこと。  さらに、一部自治体では、詳細な行動記録を写真付きで提出するよう求めている。  障害ゆえに「外出してプライバシーを侵害されるか、外出を断念するか」の究極の選択 を迫られるのである。  しかしここでは、第3項(2)に注目していただきたい。
  • 32. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか (2)通所、通学、通勤又は通院等を目的とするときであって、通年かつ長期にわたると き。    「移動支援サービスは、通学には利用してはならない」ということが示されている。  特別支援学校であれば、多くはスクールバス運行などを行い、親の負荷を軽減してい る。しかし、バス停留所までの送迎は、親が行うしかない。  通常の小学校・中学校の特別支援学級や通常学級に在籍する障害児も数多い。理由は、 「親が分離教育(障害児だけを特別支援学校などで学ばせること)に反対している」であ るとは限らない。「知能が非常に発達しているため、本人の発達のためには通常学級で学 ばせるのが適切」という判断から、通常学級という選択がされることもある。いずれにし ても、登下校の支援・必要であれば学校にいる間の生活支援を、誰かが行う必要がある。 その「誰か」は、親でなければ、親の依頼したボランティアとなるしかない。その時間や 労力を支払うことのできない親のもとに生まれた障害児は、実質的に、義務教育も受ける ことができないのである。  近年、この状況は徐々に改善されつつある。引用した記事にあるとおり、千葉市は独自 に、障害者向け移動支援サービスを、障害者が高校教育・高等教育を受けるために利用で きるようにしてきた。また東京23区内では、台東区が2008年より障害児通学支援事業を開 始し、高校までの学校教育に関する通学を保障する試みを行っている (http://www.city.taito.lg.jp/index/kusei/kisoshiryou/gyoseishiryo/hakusho/h22hakusho. files/19_syougaizituugakusien_p31_32.pdf#search=%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E5%85% 90%E3%80%80%E9%80%9A%E5%AD%A6%E6%94%AF%E6%8F%B4)。  しかし、同様の動きが他自治体に波及するまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。  引用した記事の例では、もし富山市が千葉市と同様の制度運用を行っていれば、女性は 富山市に住民票を移し、移動支援サービスを受けて学生生活を送ることができるはずであ る。しかし、それが不可能なので、千葉市の移動支援サービスを富山市で利用したいと希 望せざるを得ない現状だ。それでも、この女性は、高等教育の場までたどりつけた幸運な 例であろう。  「日本のどこの、どのような家庭に生まれても、せめて義務教育を受けられる環境を得る ことができる」は、障害児にとっては、現在もなお、遠い先に実現されるかもしれない希望 なのである。その希望が実現される将来を待っている間にも、障害児たちの子ども時代は過 ぎていき、前期青年期へと突入する。まもなく、社会人となるべき時期がやってくる。
  • 33. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号 義務教育も受けられなかった障害者たちのその後  現在、就労に必要とされる最低限の最終学歴は、せめて高校卒業であろう。最終学歴が 高校中退・中学卒業であると、健常者であり、なおかつまったく仕事を選ばないとして も、就労は困難になる。好んで就労したがる人の少ない清掃・介護などの職種でも、最終 学歴が中学卒業や高校中退では、就労も就労継続も困難なのが実情だ。障害者にとっては、 現状はどうだろうか?  障害者の就労状況や収入に関する信頼できる調査は、非常に少ない。  厚生労働省は、障害者雇用の拡大を目指して、いくつかの調査を行っている。2012年 6月に発表された「平成24年 障害者雇用状況の集計結果」(http://www.mhlw.go.jp/stf/ houdou/2r9852000002o0qm-att/241114houkoku.pdf)から、いくつかのデータを引用する。  稼働年齢(15歳∼64歳)の障害者の障害種別ごとの就労率は、以下のとおりである。就 業者数に端数が出ているのは、調査からの推計値であることによる。また、作業所等で福 祉的就労に従事する障害者も含んでいない。就業率は私が計算した。  「障害者は障害者福祉があるから甘えて働かない」という世間のイメージどおり、と言 われてもしかたがないかもしれない。なお、作業所等での福祉的雇用を含めると、就業率 は40%程度となる(2008年 厚生労働省調査 http://www.mhlw.go.jp/joudou/2008/01/dl/ h0118-2a.pdfによる)。問題は、それらの労働のありかたや、収入の状況である。  ここでは、2012年に「きょうされん」が発表した調査結果から、いくつかの結果を紹介 したい。「きょうされん」は1977年、障害者共同作業所の連絡会として発足した団体である。 この調査は、網羅性や規模の面で問題なしとは言えないが、とにもかくにも、現状の一面は 示されている(http://www.kyosaren.or.jp/research/2012/20120427chiikiseikatujittai_dai1ji.pdf)。 就業率(%) 就業者数(推計・人) 18歳以上の障害者数(人) ※注 身体障害者 9.4 346,364.5 3,654,000 知的障害者 18.7 76,603 410,000 精神障害者 0.6 18,438 3,054,000 (就業者数の出典:「平成24年 障害者雇用状況の集計結果(詳細表)」1(1)②障害者種別雇用状況、厚生労働省、2012年。 18歳以上の障害者数の出典:「平成24年版障害者白書」、厚生労働省、2012) ※注:精神障害に関しては20歳以上。 表1 障害者の就労状況
  • 34. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  障害者の年収は、具体的にはどのような金額だろうか?  「ワーキング・プア」と呼ばれるのは、単身者で年収200万円以下の層であろう。この グラフで見るとおり、障害者のほとんどは、就労していても「ワーキング・プア」なので ある。収入の中央値は、100万円以下のラインにある。  年収100∼200万円の障害者の場合、収入源は、 ・障害者雇用枠を利用しての一般就労(ただし勤務時間は一週間に30時間程度) ・生活保護+作業所などでの就労収入 ・障害基礎年金+生活保護+作業所などでの福祉的就労による就労収入 ・障害基礎年金2級+好条件の作業所などでの福祉的就労による就労収入 ・障害基礎年金1級+平均的な作業所などでの福祉的就労による就労収入 のいずれかであることが多いと考えられる。障害基礎年金の金額は、1級で年額約100万円、 2級で年額約80万円となる。障害基礎年金2級を受給している人に、1ヶ月5万円の就労収入 図 1 障害のない人とある人の収入の比較(単位:%) 2,000万円超 2,000万円以下 1,500万円以下 1,000万円以下 800万円以下 700万円以下 600万円以下 500万円以下 400万円以下 300万円以下 200万円以下 100万円以下 0 10 20 30 40 50 60 0.4 0.6   2.8 4.2    3.9     5.7       9.4           14.3              18.1             17.6           15      7.9 可処分所得の実質中央値 224万円 貧困線 112万円 障害のない人 障害のある人 0.1 1 42.8 56.1 (出典「障害のある人の地域生活実態調査の結果〈第一次報告〉」きょうされん、2012年)
  • 35. 「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか  ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号 があれば、その人の年収は140万円となる。  収入100万円以下の障害者の場合、生活保護は受給していないと考えられる。収入源の 組み合わせは ・障害基礎年金のみ(1級または2級) ・障害基礎年金2級+平均的な作業所などでの福祉的就労による就労収入 ・作業所などでの福祉的就労による就労収入のみ のいずれかであることが多いであろう。平均的な作業所で得られる就労収入は、地域やタ イプによっても異なるが、概ね月額10,000円前後であることが多い。  さらに、このグラフに出現している障害者の例は、障害者の全体から見て、極めて恵ま れた一部であることを指摘しておきたい。施設も含めて一般社会で生活し、限定された範 囲で低収入とはいえ就労している障害者は、まだしも恵まれた存在なのである。  「累犯障害者」と呼ばれる人々がいる。家庭環境に恵まれず、学校教育も含めて必要最 低限の教育を受けることができず、成人しても就労もできなかった障害者の一部は、その ような選択へと追い詰められる。知的障害・視覚障害・聴覚障害などの障害は、情報の入 手に対するハンディキャップとなるため、障害者福祉の利用が難しい。家族などの支援が 得られる状況であったら、せめて小学校相当の教育は受けられたであろう。しかし、累犯 障害者の相当数は、文字の読み書きにも支障のある状態で成人していたりする。  この人々は、ある時、たとえば飢えからコンビニで菓子パンを万引きしようとして、逮 捕される。再犯となれば、実刑判決を受け、刑務所に収監される。刑務所には自由はない ものの、食事・介護・介助などが充分に提供される。短い刑期を終えて釈放されても、一 般社会で生きる術を有しているわけではない。従って、また菓子パンを万引きする。今度 は、刑務所に入るために。  また、精神科病院・精神科病棟を中心に、「社会的入院」と呼ばれるタイプの長期入院 (概ね5年以上)患者が多数いる。2010年、精神科の入院患者は約31万人であった。うち、 長期入院患者は人数は11万5千人ほどである(「目で見る精神保健福祉」http://www.ncnp. go.jp/nimh/keikaku/vision/pdf/medemiru7.pdf)。日本の精神科病棟数・長期入院患者数
  • 36. ライブラリー・リソース・ガイド 2013 年 冬号  「知」の機会不平等を解消するために ─ 何から始めればよいのか は、人口を考慮しても先進各国に比べて多いため、長年、長期入院患者を減少させる取り 組みが行われてきたが、いまだ10万人を超える長期入院患者が存在する。その人々の多く は、「社会的入院」患者である。  「社会的入院」とは、治療の結果として病状が安定し、地域生活が可能な状況になって いるにもかかわらず、精神障害者に対する家庭や地域の偏見ゆえに退院後の行き先がな く、しかたなく長期入院を続けている状態である。なお、認知症などの高齢者も多数、精 神科の「社会的入院」患者に含まれている。  長期入院患者たちは、退院したからといって、地域や家庭に居場所を見つけることがで きるわけではない。もしあれば、そもそも、長期入院を余儀なくされることはなかったの である。このため、社会復帰支援施設と呼ばれる施設が、多数、建設されている。その施 設の敷地は多く、精神科病院の敷地内である。名ばかりの社会復帰である。  刑務所の中にいる累犯障害者たちや、いまだ精神科病棟の中にいる長期入院患者たち は、「きょうされん」の調査の結果としても出現しない。この人々を含めれば、年収100万 円以下の障害者の比率は、さらに増大するであろう。  経済的自立が実現しにくいことの結果として、障害者の生活保護利用率は、健常者の5 倍に達している(前述「きょうされん」調査)。 図 2 20歳以上の生活保護受給者の割合(単位:%) 障害のない人 障害のある人 0.0% 8.0%6.0%4.0%2.0% 10.0% 1.69 9.25 (出典「障害のある人の地域生活実態調査の結果〈第一次報告〉」きょうされん、2012年)