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LRGライブラリー・リソース・ガイド 第3号/2013年 春号
発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社
Library Resource Guide
ISSN 2187-4115
図書館における資金調達(ファンドレイジング)
特集 嶋田綾子・岡本真
特別寄稿 水島久光
記憶を失うことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
LRG Library Resource Guide
ライブラリー・リソース・ガイド 第3号/2013年 春号
発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社
図書館における資金調達(ファンドレイジング)
特集 嶋田綾子・岡本真
特別寄稿 水島久光
記憶を失うことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
2 巻頭言 ライブラリー・リソース ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号
当初の心積もりよりやや遅くなったものの、『 ライブラリー・リソース・ガイド』
第3号ができあがりました。特に今回は各地の図書館関係者に編集のご協力を賜り
ました。心から御礼を申し上げます。
少しだけ内情を申しますと、「 図書館システム」を特集した第2号の売れ行きがあ
まりよくなく、この第3号の売れ行き次第では、『 ライブラリー・リソース・ガイド』
は進退きわまる事態になるかもしれません。本誌をご評価いただけるようでしたら、
この第3号に加え、第2号もお買い求めいただけますと幸いです。
さて、この第3号は、創刊号や第2号と同様、
 ●特別寄稿
 「記憶を失うことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践」(水島久光)
 ●特集「図書館における資金調達(ファンドレイジング)」
 という2本立てとなっています。
水島久光さんは、メディア論などを専門とする研究者です。『 閉じつつ開かれる
世界』(勁草書房、2004年)、『テレビジョン・クライシス』(せりか書房、2008年)
などのご著書をお読みになられた方もいらっしゃることでしょう。水島さんのライフ
ワークの一つが、論考の副題にもある「アーカイブ」です。夕張、鹿児島、東北と、
3つの地域を背景とした議論は、皆さまに様々な示唆を与えてくれるでしょう。アー
カイブ論の画期の一つとなる論考であると、私どもは自負しています。
巻頭言
実践する図書館のために
3ラ イ ブ ラ リ ー ・リソース・ガイド 2013 年 春 号 巻頭言
また、水島さんは本誌発行元であるアカデミック・リソース・ガイド株式会社が
入居するシェアオフィス「 さくらWORKS<関内>」の入居者でもあります。編集、
執筆、デザインのすべてをこの共同オフィスの入居者でまかなってきましたが、つ
いに寄稿者まで得ることができたことをひそかに喜んでいます。日常的に議論し合
える関係という、文字通りの「協働」が生み出したという背景にもご注目ください。
特集「 図書館における資金調達( ファンドレイジング)」は、本誌の創刊時から
必ず実施すると考えてきたものです。資金調達(ファンドレイジング)の重要性は、
図書館業界の関係者の誰もがうなずくところでしょう。しかし、その重要性にも関わ
らず、網羅的かつ体系的な特集が、図書館関係の雑誌で組まれたことはありませ
ん。その理由をここでは問いませんが、手前味噌を承知で、言うなれば幻の企画
が本誌で実現できたことを素直に喜んでいます。
せひ、紹介する事例とその事例にみられるノウハウを引き出し、自らも資金を調
達できる図書館が増えていく一助となれば幸いです。
編集兼発行人:岡本真
責任編集者:嶋田綾子
巻 頭 言 実践する図書館のために[岡本真]……………………………………………………… 2
特別寄稿 「記憶を失う」ことをめぐって
    アーカイブと地域を結びつける実践[水島久光 ]…………………………………… 5
特  集 図書館における資金調達(ファンドレイジング)[嶋田綾子・岡本真]………………… 63
LRG CONTENTS
Library Resource Guide
ライブラリー・リソース・ガイド 第3号/2013年 春号
「ふるさと納税」を利用する
 [Case01] ふるさと納税で、児童書を整備
 [Case02] 納税者に「としょかんカード」の発行
 [Case03] 失効したポイントを利用する
 [Case04] 寄付された1000万円で、3043冊を購入
 [Case05] 寄付金で、児童書の購入やデジタル民話を作成
寄付を募る
 [Case06] 館内に募金箱を設置
 [Case07] 書庫整備のために寄付を募る
 [Case08] 寄付者に、フレンドリー利用証を発行
 [Case09] 300万以上の寄付で終身の特別利用証を発行
 [Case10] 基金で、被災した図書館の建て替えを目指す
 [Case11] 図書館まるごと寄贈を受ける
 [Case12] 地域の風習と寄付を組み合わせる
 [Case13] 人生の節目に寄付を提案
 [Case14] 館内に設置した自販機の売上げを寄付
 [Case15] クラウドファンディングに図書館ならではの引換券
本の寄贈を募る
 [Case16] 所蔵できない雑誌の号を寄贈で募る
 [Case17] 全国有数の社史コレクションを寄贈で作る
 [Case18] 友の会が寄贈本を集め販売
 [Case19] 寄贈本だけを所蔵する図書館
 [Case20] 「Amazonほしい物リスト」を活用した寄贈
 [Case21] 寄贈本にメッセージ
 [Case22] 寄贈者と図書館をマッチング(1)
 [Case23] 寄贈者と図書館をマッチング(2)
雑誌スポンサー制度を利用する
 [Case24] ベーシックな雑誌スポンサー制度導入館
 [Case25] 雑誌への広告掲載料をとるモデル
 [Case26] NPOが仲介する雑誌スポンサー制度
広告を募る
 [Case27] 貸出用レシートにクーポンを印字
 [Case28] 図書館への広告掲載事業
………………………… 70
………………………………… 77
…………………………………… 92
………………… 104
……………………………………… 112
……………………………… 118
……………… 123
……………………… 126
…… 138
寄付・寄贈篇 ………………………………… 69
広告篇 ………………………………………… 103
販売篇……………………………………………117
交付金・助成金篇……………………………129
さまざまな方法を
組み合わせた資金調達
……………………………143
………………………144
除籍資料を販売する
 [Case29] 除籍資料を1冊、100円で有償配布
 [Case30] NPOが、除籍本を販売
 [Case31] 常設コーナーで、除籍資料を販売
図書館が作成したものを販売する
 [Case32] 図書館で作成したレファレンス資料の販売
 [Case33] 図書館内でのオリジナルグッズの販売
オンライン書店と連携する
 [Case34] 検索結果を、オンライン書店に誘導
 [Case35] アフィリエイトの利用
 [Case36] 住民生活に光をそそぐ交付金事業
 [Case37] 科学研究費助成事業
 [Case38] 科学技術コミュニケーション推進事業
 [Case39] 地域情報化アドバイザー
 図書館事業に役立つ、交付金・助成金制度
 
 
民間の図書館における実践
 [Case40] 寄付やグッズ販売で、活動資金を調達する
 [Case41] 支援者の立ち位置に寄り添った支援調達
 [Case42] 寄付金や物販で「稼ぐ」図書館
 [Case43] ボランティアと「寄付・寄贈」で運営
 [Case44] 支援者と協力して、図書館を運営
参考文献 ………………………………………… 154
アカデミック・リソース・ガイド株式会社      
業務実績 定期報告 ………………………………… 156
定期購読のご案内 ………………………………… 158
次号予告…………………………………………… 159
アーカイブと地域を結びつける実践
水島久光
記憶を失う ことをめぐって
6 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
これから申し上げるのは、「 記憶は、どうやって失われるか」ということに関
するお話です。とはいっても「 記憶喪失」という言葉で語られるような、症状
や障害のことではありません。「 個々人」単位で起こるこうした現象は、主に精
神病理学的に扱われますが、今回のお話は、それは往々にして「 集団的」ある
いは「 社会的」、もっと突っ込んだ言い方をするなら「 歴史的」に生じうるとい
うことに焦点を当てたものです。
それは決して珍しいことではありません。というよりむしろ「 人間は忘却の
生き物である」といわれるように、忘れることの方があたりまえで、記憶を維持
し続けることの難しさはみんなが知っています。だから、私たちは子どもの頃か
ら一所懸命「 記憶」する技術を学び、ときに「 記録」することで、補完しよう
としてきました。でも天邪鬼な僕は、ある日不思議に思ったのです。本当に、忘
れることは自然なことなのだろうか、と。
1. はじめに
東海大学文学部教授。広告会社、インターネット企業を経て、2003
年に着任。メディアのデジタル化が主な研究テーマ。「映像アーカイ
ブ」に関係する実践を多数行っている。著書に『閉じつつ開かれる
世界』(勁草書房、2004年)『テレビジョン・クライシス』(せりか書房、
2008年)、『窓あるいは鏡』(慶應出版会、2008年、共著)、監訳書に
『コミュニケーション学講義』(D.ブーニュー著、書籍工房早山、2010
年)がある。BPO放送倫理検証委員。
アーカイブと地域を結びつける実践
水島久光(東海大学文学部)
記憶を失う ことを
めぐって
7ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
一方で集団を成す生き物である人間は、この忘却を他者との関係によってカ
バーする術を磨いてきました。「 社会」はすなわち、記憶の集積によって築かれ
ると言ってもいいかもしれません。世界中の様々な民族が固有の神話を持ってい
ることが、社会と記憶の密接な関係を表しています。記憶を集団的に構築してい
くためには、その組み立てを組織的に行う必要があります。そこには当然、権力
装置が不可欠であり、「 選ばれる記憶」と「 捨てられる記憶」の区別が設けられ
ていきます――これまで「 集団的」な記憶喪失は、こうした権力装置による統
制の結果として、また政治学的なカテゴリーにおいて語られてきました。
しかし、それだけで「 集団的」に記憶を失うという現象を語り尽くすことは
できるのでしょうか。統制はむしろ、生来、人間にそなわった忘却のメカニズム
に乗じて、人々の記憶への介入、操作を企図したものではないのでしょうか。僕
たちは統制の強制力を意識することができます。ゆえにそれに対するストレスが
原因となって、逆に記憶を内面において強化するということも、少なからず経験
してきているでしょう。つまり「 覚えている」「 忘れてしまう」という現象は複
雑で、そう簡単に説明できることではないのです。
20世紀はマス・メディアの時代だったといわれます。新聞、ラジオ、テレビ
といった強力な記録・伝播システムが、この100年間で一気に日常生活を覆い
尽くしました。その間に2つの世界大戦があり、その後は数々の地域紛争が勃発
し、グローバル経済の発展があり、そしてバブル経済の崩壊がありました。ざっ
と振り返ってみるだけでも、僕たちの記憶と忘却に関わる環境変化は、このよう
な世界の「マス」化をめぐる攻防との関係で考える必要があることがわかります。
記憶や忘却の集団性は政治、経済、文化を横断するような社会システムの変化に
媒介されているのです。
その文脈で言えば、前世紀末から畳み掛けるように起こっている政治、経済、
文化の変化、そしてそれを支えるメディアの動きは、この20世紀型の「 マス」
化とは異なるベクトルで、新たな秩序が形成され始めていることを予感させてく
れます。「 国家」という枠組みの再考と再編、財政破綻と金融危機、現在進行形
で語られるこれらのアジェンダの背景には、各社会システムを通底するテクノロ
ジーの総デジタル化があります。
いま僕たちは数百年に一度の「変化」に直面しているのです。その中で「情報」
になんらかの関わりを持つ仕事をするということは、どんな意味を持つのか――
なんだか、一気に話が大仰になってきたように感じられるかもしれませんが、そ
8 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
れは「 社会」が「 記憶システム」である以上、避けることができない問いでは
ないかと思います。大事なことはその「 社会」が、一人ひとりから成り立って
いるということ。こういう時だからこそ、個人的な記憶/忘却が集団的な記憶/
忘却に結びつくプロセスや、顕在化した社会システムおよび統制の後景にあるメ
カニズムに、接近する努力を怠ってはいけないように思います。
僕はここ数年、この難しい問題に具体的な「 地域」に生きる人々の具体的な
「 トピック」からアプローチしてきました。最近、ようやくその問題の輪郭が
見え始めたような気がしています。この原稿を書こうと考えたのも、この時期だ
からこそ書けるデッサンを、肌理の粗い筆致かもしれないが残しておこうと思っ
たからです――僕自身の「 記憶」と「 忘却」を素材に自問自答することは、そ
れこそ「 この時代の当事者」として、「 情報」に関わる仕事の意味を問い直す作
業につながるのではないかと。
2-1 テレビ・システムと社会システム
僕はもともと放送研究をなりわいにしてきました。番組を記号論的に分析して
論文を書く一方で、この巨大メディアのデジタル化に興味をもち、その全体の動
向を解釈すべく、変化の兆候に目を凝らす作業を続けていました。
かつてテレビは「 集団的な記憶装置」たることによって、20世紀の僕たちの
生活を覆うことに成功したといわれています。実際、1961年生まれの僕は、ま
さに自らの記憶を構成するイメージの多くがテレビのモニターに依存しているこ
とを自覚しています。しかしそれは物質的な、あるいは技術的なカテゴリーとし
てのテレビの機能に依存しているというよりも( それ自体が記憶システムであ
るところの)、「 社会」が、その生成原理をテレビに委ねていたことの表れとい
えます※1
。
テレビがどのようにして「 社会化」を担ってきたか――それはこのメディア
が特にかたち作ってきた時間と空間との関係に支えられてきました。地上波の物
性と戦後民主主義の要請は、生活の実時間を参照軸に番組を編成し、同心円的に
ナショナルな空間を覆う系列の秩序化を促しました。その結果私たちは同じ時間
2. 導きの糸―テレビから、ポスト・テレビ時代へ
9ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
と空間を共有するヴァーチャル感覚を身につけ、それを媒介に「 社会」を認識
するようになったのです。
実際、テレビは意識的あるいは無意識的に、60年間そのシステムの再生産に
努めてきたと言えます。U・エーコが「 ネオTV」と命名したように、1980年代
以降、特に顕著にテレビは、自己言及的に組織構築していく運動体へと純化して
いきました。矛盾めいた言い方をしますが、僕はそのことがテレビ自身の手に
よってテレビ時代の黄昏を生み出す契機となったと考えています※2
。
テレビ・システムの純化が進む一方で、それとカップリング関係にあった「社
会」も、自己組織的に、少しずつその形を変えていきました。資本主義の原理で
ある拡大再生産( マス)モードは、時空間秩序に準拠した物理的限界まで広が
り尽くすと、今度はその秩序自体を崩すことで、「 情報」という目に見えないモ
ノの増殖を促し、それによって自己保存を図る方向にシフトしていきました。既
に僕たちの社会は、地理的には一部の独裁政権を除き、24時間、360度の全てが
「市場」に覆い尽くされています。
旧来のテレビ・システムの限界は、こうした社会環境の変質との関係で考える
ことができるでしょう。デジタルメディアの普及、あるいはあらゆるメディアの
デジタル化は、「 拡張」が物理対象の地平から離陸し、別の( 数理的)次元にそ
の主戦場を求めていった結果なのです。しかしそうなると、本論の主題である
「記憶」の問題は、どう考えたらよいのでしょうか。「社会」が「記憶システム」
として成立するという前提を踏まえるなら、それが「 情報」として、物理的現
実から離れていこうとしているという事態に、僕たちはどのように向き合うこと
ができるのでしょう。
少し具体的な事柄に引きつけて、このことを考えてみましょう。それは「 戦
争の記憶」という問題です。日本のテレビにとって( 特に公共放送たるNHKに
とって)、ずっと「 戦争」は特別なアジェンダでした。それはこの国の放送の歴
史と深く関わっています。かつて政治の支配下に置かれたメディアは、戦後民主
主義体制の構築過程の中でリ・デザインされ、テレビ放送は( 沖縄を除く)日
本の主権回復の翌年に、それを支えるものとしてスタートを切りました。した
がって、戦争・戦後というワードは、このメディアのレゾン・デ・トルと深く結
びついているのです。
ここでいう「 戦争」は、もちろん一義的には、かの満州事変に始まるアジア
太平洋15年戦争のことを指します。しかしテレビは、必ずしも直接的にその「記
10 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
憶」を指し示していたわけではありません。
桜井均は『 テレビは戦争をどう描いてきたか 映像と記憶のアーカイブス』( 岩
波書店、2005年)でこのことを指摘していますが、彼が言うところの戦後およ
そ40年あたりまで繰り返される戦争言説の「 モノローグ性」は、「 記憶」への向
き合い難さに対する的確な表現ではないかと思います。生々しい「 印象」を言
語化することもできず、また特に戦後すぐは、それを助けてくれる資料も多くが
公開されないままの状態にあったわけで、戦後の人々の「 戦争の記憶」は、長
らく「近くにあれども、語り難い」対象であったのです。
テレビはそうした人々の心性を映し出す「鏡」であったと言えます。NHKの『日
本の素顔』から『 現代の映像』『 ある人生』へと続く初期テレビ・ドキュメンタ
リー、あるいは民放( TBS)で村木良彦や萩元晴彦が行った新しいテレビの可能
性を問う実践番組でも、「 私、あなた」と「 いま」という直接的な言及対象を介
して、影絵のように、戦争という「過去」と、それをもって個を圧迫した「社会」
を思い描くアプローチが採られていました。それが徐々に「 過去」に遠ざかり、
資料が開示されるとともに記憶が社会的に組織され、他者性を帯びていく――こ
の変化について、僕たちはもう少し自覚的であってもよかったように思います※3
。
2-2「2005 年」はなぜ振り返るべき節目となったのか
その点では2005年、「 かの戦争」の終結から60年という節目は、最も戦争の記
憶に関する言説が「 多声的( ポリフォニック)」な様相を呈した年ではなかった
かと思います。それまでも日本人は、10年単位でメモリアル・イヤーを設定し、
戦争を振り返ることをしてきました。しかしそれは先の桜井の指摘にあるように
心理的にも、資料的にも、また研究としても十分に「開かれたもの」ではなかっ
たことは確かなようです。坪井秀人も文学研究の立場から、著作『 戦争の記憶
をさかのぼる』(ちくま新書、2005年)でそのことを検証しています。
しかし2005年はさまざまな条件が重なり、「 かの戦争」を振り返る言説がメ
ディア上に溢れかえりました。天皇崩御から16年が経過し「 昭和」という時代
に一定の距離をとることが可能になったこともあるでしょう。同時に東西冷戦
の終結からほぼ同じだけの時が流れ、世界的に「 戦争」や「 紛争」を問い直す
ムードが出てきたことも見逃せません。しかし何よりも大きな影響を与えたのは、
2000年に米国で「 日本帝国政府情報公開法」が成立し、アメリカ国立公文書記
11ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
録管理局などが保管していた戦時下の日本に関する記録が、一気に機密指定から
外れたことでしょう。それまで明るみに出ていなかった様々な事実が、検証可能
になりました。
それに併せてもう一つ、決定的な変化が起こり始めていました。それは戦争体
験者の老化という避けがたい事実と、それに対する体験者自身および、彼らを取
り巻く人々の心の変化です。気がつけば60年という時の流れの中で、既に「 戦
争」を自らの言葉で語りうる多くの人は鬼籍に入り、ドキュメントの軸足は「記
憶」から「 記録」に移り始めていました。存命の人でも、当時既に成人に達し
ていた人は80歳を超え、特に戦地の過酷な経験を持ち、口をつぐんでいた兵士
や在外者の中には、やがて訪れる「 自らの死」に向き合う意識から、言葉を発
し始める人々が現れ始めたのです。
また「 かの戦争」に対して高い意識を持つ戦後世代、特にジャーナリストた
ちは、この記憶と記録を媒介する「 証言」という行為に注目をし始めました。
体験者を潜在的証言者として位置づけ、その希少化から言葉を拾うことに群がる
一種の「 証言ブーム」が、この年を契機に加速し始めます。それはそれで大事
なことなのですが、この「 大量生産」は証言に対する無批判性を生み出すよう
になっていきます。記録に残さねばならないという使命感が集合的実態を伴うよ
うになってくると、その「証言」の数の大きさがポジティブな雰囲気を醸し出し、
その内容の多様さに対する関心を相対的に薄れさせるのです。
実際、「 記憶」とは極めて複雑で、不確かなものです。それまで口にすること
を躊躇っていたことがらでも、人は思い出すこと自体を完全に封じ込められるわ
けではありません。おそらくその個人の脳裏においては、ことあるごとに何度も
それは想起( recall)され、そのたびに「 更新」されてきたはずです。その意味
で「 記憶」とは、決してその対象である出来事との最初の出会いから、フリー
ズしたまま時を超えて運ばれるものではないと言えます。「 言葉」は、その更新
に大きな役割を果たします。頭の中に止まってきたイメージが言語化され外化さ
れるとき、記憶にはその時々の様々な「 いま」が絡み付き、新たな文脈の中で
再生されることになります。
その中でも、「 証言」は語る行為と語られる内容の時制が交錯するという意味
で、特異な表現態であるといえます。すなわち「 証言」は、それ自体の形式に
おいて「 記録」として扱われうる必然性は備わっておらず( オーラル・ヒスト
リーの作法においても、それが「 記録」と見なされるのは、「 筆記者」によって
12 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
書きとめられる限りにおいてである)、その語りの対象内容と、聞き手との関係
の間にあって、偶然的にそうであるにすぎません。
その意味で戦後60年というタイミングは、戦争という「 対象」と、聞き手
( ジャーナリストたち)の「 ニーズ」が重なり、体験者たちの過去に関する語
りを貴重な「 証言」として記録化するフレームとなったと言えます。それにさ
らに重なったのが、先に述べたような元機密資料の公開です。こうして「証言」
と「 資料」の出会いが、この時期のドキュメンタリーの中に「 新たに発見され
た資料をもとに、寄せられた証言とともに過去の出来事を検証する」という宣言
をクリシェ(常套句)として生み出していったのです※4
。
専ら「 いま」を描くメディアとして君臨してきたテレビが、「 過去」を主題と
することは、様々な困難をその中に抱え込むことを意味します。「 検証」はもち
ろん、その時間の隔たりを埋めるための一つのアプローチですが、しかしそれは
よく考えれば、決して簡単なことではありません。しかし、かのクリシェは、特
に形式化が進んだテレビ・ドキュメンタリーのアバンタイトル( タイトル前の
概要紹介シーン)の中に、そもそもそれが番組の自明の目的であるかのように挿
入されています。
この年から数年の間、戦争に関するドキュメンタリーは、その前後と比較して
も積極的に制作されたように思います。しかしそれらは本当にアバンタイトルの
「 宣言」どおり、あの過去の出来事の「 検証」をしたのでしょうか。そもそも
「 検証」とは、何をする行為なのでしょうか。それは「 記録」と「 証言」をた
だ「棚卸し」し「陳列」することと、どこが違うのでしょうか――2013年の「い
ま」、2005年を振り返るべき節目と考えることは、一つのメモリアル・イヤーで
あることを超えた、大きな問題がその時期に実は提起されていたということ、そ
して「 同時代的感覚において」その問題を見落としていたことを( 遅ればせな
がらではあっても)確認するということに他なりません。まさにミネルヴァの梟
のような話ではありますが。
2-3 時空間認識のパラドックス
とりあえず議論を先に進めるために、まず「 ざっくり」と、2005年を境に僕
たちをとりまいている「 メディア」と「 社会」のカップリングの仕方に、何ら
かの変化があったのではないか、という仮説を立ててみようと思います。
13ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
それはおそらく、「 事実」に対する感覚に表れていると言えましょう。僕たち
は日常会話レベルでは、結構ナイーブに「 事実」という言葉を使っていますが、
よくよく考えてみればそれは極めて危うい扱いの難しい概念です。「 事実」は多
くの判断を支える根拠として求められる一方で、それ自身は常に「 媒介的」に
しか立ち現れることができません。
「 ありのままの事実なんてものはない」「 それは必ずどこかの視点からの『 見
え』でしかない」――これらはジャーナリズムやメディア論の基本中の基本の
テーゼであり、社会認識の出発点とされてきたことでした。それは科学的認識に
関しても、大きな違いはありません。常識とされてきた知識も、その多くは「人
間」と「 自然」との対立関係を前提とした、技術論的パースペクティブの下に
あることは、今や多くの人々が認めるところです※5
。西欧中心主義やデカルト的
な近代意識の超克といった議論は、多かれ少なかれ、20世紀における認識批判
によって導かれたものと言えます。まあ、その行き過ぎたものとして、「ポスト・
モダン」的相対主義に陥る場合もありましたが。
ところが昨今まわりを見回すと、いつの間にか再び、かのナイーブな「事実」
主義(「 事実」なるものへの無批判性)が広がってきているように思えます。東
日本大震災以降、それはさらに加速して、「 マス・メディアは嘘をつく」「 政府・
官僚・学者は事実を隠ぺいする」と声を荒げ、糾弾する人々を日常的に目にする
ようになりました。「 事実」は認識し得て当然、もしそれができない場合、そこ
には何らかの悪意が存在するという決めつけに走るこの極論、安易さには、むし
ろ20世紀以前の状態への回帰というよりも、何か未曾有の事態の到来を感じず
にいられません。
この「 事実」に対する認識の急転回は、社会全般の「 不寛容さ」の増大と結
びついています。「 本音」を晒すことが、さも潔いかのごとく、言葉を選ばずに
他者を攻撃する人々が、このように白昼堂々、往来を闊歩するような時代が来る
とは、正直思ってもみませんでした。それは無邪気に迷彩服を着て、戦車に乗り
込みポーズをとるような人が、一国の首相なのですから、「 さもありなん」とい
うことなのかもしれません。この「 右翼的思想」の広がりだけでなく、レイシ
ズムも反レイシズムも、双方が視野狭窄に陥っているようなこの状態をみると、
あの認識批判の時代は、どこにいってしまったんだろうと不思議に思います。
それは「 事実」に対する意識的な絶対視というよりも、むしろ逆に短絡、す
なわちその透明性を生み出す技術に対する無自覚が生じているように僕には思え
14 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
ます。既存の「 目に見える対象」をとりあえず肯定するが、仮に確からしきも
のがそこに「 見えない」ときには、反射的苛立ちが抑えられないといった衝動
が剥き出しになった状態――つまりそこでは「 何が」見えているのか、その対
象の内容には関心がなく、とりあえず「何かが」見えているという「メタ状況」
にあることが大事なのです。
それは自らの存在の確かさが失われた状態であり、その病理は遠近感を失った、
「 生きられる世界」に対する感覚機能の劣化に求めることができます。僕たち
の遠近感の基本は時空間認識であり、過去と未来の間に現在を、HereとThereの
間に距離を設定する能力にあります。いま、多くの人々が次々に存在の不安を直
接/間接に訴え、そこにいつの間にか68年前に終わったはずの「 戦争」の姿が
亡霊のように現れ、不安を不安で相克しあうようなオカルト的世界が展開し始め
ているという現実は、時空間認識が崩れた極めて危険な状況であるとしか言いよ
うがありません。
この「 事実」に対する麻痺、あるいは痙攣的な無感覚状態は、しかしながら
よく考えてみれば、「 情報化社会」においてよく見られる「 日常の風景」の範列
の一つとも言えます。何かを考える前に(考えるという回路を避け)、指はスマー
トフォンを、ゲーム機をさわり、その微かな触感と、送り届けられる微細な視聴
覚的変化に心を研ぎ澄ます毎日。「存在への不安」(メディアへの埋没)と「意味
に対する背走」( 社会への埋没)というカップリングから、無時間・無空間的世
界において、反射的行動を繰り返す――ここに誕生した「 新しい人間」は、ま
るで「認識すること自体を放棄した」かのように見えます。
かつて「情報化社会」は、「情報量が拡大する社会」と言い換えられていました。
この文脈において「情報」は、あくまで僕たちが「知りうる対象」としてイメー
ジされていました。つまりそれは、仮にそれがメディア上に溢れるようになった
としても、検索サービスを使えば常に「 可能的」に手にすることができるもの
であり、したがってそれを利用「 できる/できない」は、個人のリテラシーに
還元されるものとみなされるようになりました――これは、例の「自己責任論」
と同じ構造です。
この「 先取り感」( 一種の全能感)こそが、遠近感の喪失の表れであり、今日
の時空間認識の乱れそのものとは言えないでしょうか。何でも知っている( 知
り得る)かのような傲慢さと、自らをまとい、守るものを何も持っていないかの
ような臆病な振る舞いの同居。そうした人々の姿は、この「 社会」が機能不全
15ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
に陥っている証であり、それはまさに拡大した「 情報量」に対する、認識シス
テムの相対的敗北であると僕には映るのです。
なんだかすごく大仰な話を聞かされていると思われるかもしれませんが( 繰
り返しますが)、これが本論の主題です。「 社会」が「 記憶システム」であると
いうことは、その「 記憶」こそが、実は僕たちの身を守る「 衣服」であったの
です。たとえ話的に言うならば、それはテレビ・システムからの衣替えの季節を、
僕たちはきちんと整理整頓しながら、越えることができるのか( これまで、そ
うしてきたか)という問いになるでしょう。
テレビとともに作り出された時空間の代わりに、どのような時空間認識がデザ
インできるのか。そこにおいて「 記憶」と「 記録」の関係は、どのように定義
されるのか。そしてかつてテレビにとって「戦争」が特別な対象であったように、
僕たちの生存を脅かすようなカタストロフィーをどのように位置づけるのか――
ポスト・テレビ時代が、絶望と社会的「 記憶喪失」の時代にならないようにし
たい――ここから少しずつお話ししていくことは、そうした新たな歴史記述に関
わる試みの一部です。ちなみに僕はそれを「 アーカイブ実践」と呼んでいるの
です。
3-1 2005 年 8 月の『戦争』関連番組という「映像群」との出会い
「 2005年8月に放送される『 戦争』に関する番組を、一通り録画してみよう」
――最初にそれを思いついたときには、本論でここまで述べてきたような構想は
当然ありませんでした。むしろ恥ずかしながら、「 デジタル機器による大量録画
ができるようになったのだから、やってみよう」というぐらいの技術的好奇心に
促された軽い気持ちで、その対象を探したような側面の方が強かったように思い
ます。この年の8月1日から31日までの1ヶ月間に録画した番組は、地上波と衛星
放送( ハイビジョン除く)を合わせて計110番組に上りました。そのうち不完全
な録画や、重複( 期間内再放送)などを除くと78番組。これが、僕の手元に構
築された最初の「私的アーカイブ」ということになります。
とはいうもののこの時の僕には、「 アーカイブを作る」という意識はあまりあ
3.「私的」にアーカイブを構築することについて
16 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
りませんでした。分析の対象として、複数の番組を録画しようとしていただけで、
「 番組」が群として存在することにこれといった「 意味」を感じてはいなかっ
たのです。もちろん、「 アーカイブ」という言葉は知っていましたし、2003年か
ら「 NHKアーカイブス」の事業が本格的に開始されていましたから、それも頭
にはありました。しかし、アーカイブといえば大規模な公共設備の事業イメージ
がありましたし、一方でPC用語にも「 アーカイブ」はありましたが、概念的に
それらを結び付けようという考えもありませんでした。
ですから僕の「 アーカイブ論」は、定義づけや理論的考察よりも、ある意味、
体験に先導された感が強かったといえるでしょう。それはまず「 情報が群れと
なって、押し寄せてくる」感覚として表れました。それに気がついたのは、録画
した78番組のリストを作成している最中だったと思います。録画は、対象とし
た各局をまんべんなく行ったのに、( 当たり前のことではありますが)それは決
して均等ではなく、「波」あるいは「塊」として「記録」されていったのです。
「 NHK」はその中で、最も大きな「 塊」を成していたと言えます。なにしろ録
画番組中の約7割( 54本)を占めていたのですから、この年8月のNHKの番組編
成は、いかに『 戦争』を中心に組み立てられていたかがわかります。うち33番
組が地上波。当時、衛星放送は三波ありましたが、それはあくまで地上波の補完
的な位置づけで、中心はあくまで総合・教育( 現・Eテレ)にありました。NHK
=公共放送という存在そのものに、いかに「 戦争」が刻みつけられてきたかに
ついては( 簡単ではありますが)既に述べた通りですが、そのことはこの国の
公共性( Publicness)の概念が、この「 記憶」を想起することと深く結びついて
いることを表しています※6
。
その中心に「 塊」としてあるのが「 NHKスペシャル」です。NHKの番組制作
史のメインストリームとして扱われるこの番組枠は、今日でこそ多様なテーマ、
ジャンルに開かれてはいますが、そもそもは『 日本の素顔』『 現代の映像』に始
まるテレビ・ドキュメンタリーの系譜を正統に継承する流れに位置づけられます。
特筆すべきは、通常は日曜21時を中心に( シリーズ企画などは他の曜日にも)
放送されてきたこの番組が、2005年の8月は、6日から14日まで連続9日間「 戦
争」を題材にした異なるテーマの番組を放送し続けたという事実です。これだけ
連続して、しかも異なる形式・主題の番組を「 スペシャル」の名の下に放送し
続けたということは、極めて異例であることは言うまでもないでしょう。
 
17ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
6日:被爆60年企画   被爆者命の記録 ∼放射線と闘う人々の60年∼(21:00-22:15)
7日:終戦60年企画   ZONE・核と人間(21:00-23:15)
8日:終戦60年企画   追跡 核の闇市場 ∼放置された巨大ネットワーク(21:00-21:58)
9日:被爆60年企画   赤い背中 ∼原爆を背負い続けた60年∼(21:00-21:53)
10日:終戦60年企画   コソボ・隣人たちの戦争 憎しみの通り の6年(21:00-21:58)
11日:終戦60年企画   そして日本は焦土となった ∼都市爆撃の真実∼(21:00-21:58)
12日:終戦60年関連企画 ドラマ「象列車がやってきた」(19:30-20:45)
13日:終戦60年企画   靖国神社 ∼占領下の知られざる攻防∼(21:00-22:13)
14日:終戦60年企画   戦後60年 靖国問題を考える(21:00-22:45)
15日:日本のこれから  戦後60年 じっくり話そう アジアの中の日本
           (第1部:17:10-18:20、第2部:19:30-21:30、第3部:22:30-24:00)
これらの番組群には、いずれも「終戦」あるいは「被爆」60年企画という冠が
つけられていることから、「 一連のもの」として視聴されることを想定して、ラ
インナップが組まれたことがわかります。また「 NHKスペシャル」の枠ではあ
りませんが、7日から9日の3夜連続で「平和アーカイブス」と題して、「NHKアー
カイブス」の特番が放送され、この枠以外にも幾つかの再放送番組も含めて、戦
争に関する過去の映像と向き合い、知識を更新する機会が時系列で積み重ねられ
ていく編成になっています。
<平和アーカイブス>
7日:語り伝えるヒロシマ・ナガサキ 第一夜 原爆投下・その時何が(23:25-24:45)
8日:語り伝えるヒロシマ・ナガサキ 第二夜 被爆者たちの60年(23:00-24:00)
9日:語り伝えるヒロシマ・ナガサキ 第三夜 伝えたし、されど(24:15-25:35)
★「平和アーカイブス」以降、「環境アーカイブス」(2006)、「にっぽんくらしの記憶」(2007)
とこのアーカイブス特別企画は続くが、「ともに、いきる」(2008)以降「教育アーカ
イブス∼学び、伝え、はぐくむ」(2009)「女性のためのアーカイブ」(2010)と次第にトー
ンダウンし、NHK スペシャルとの番組連動も少なくなる。
そしてこの一連の番組郡のピーク=「 波」は、15日の特別番組「 日本のこれ
から 戦後60年 じっくり話そう アジアの中の日本( 第1部:17:10-18:20、第
18 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
2部:19:30-21:30、第3部:22:30-24:00)」に持ってくるように、デザインされて
いることに気づかされます。つまり「 戦争」をテーマにしつつも、各番組の眼
差しは「 当時の( 被爆に代表されるような)ナショナルなアジェンダ」に囚わ
れないように現代の「 核」問題や「 国際紛争」、あるいは国内では地方の都市爆
撃に焦点を当てるなど、さまざまな論点に目が行くように編成に心を配り、それ
が「 討議」に集約されていくように、大きな流れが「 設計」されているのです。
この、まるでハーバーマス的「 議論する公衆」を意識したような、押し寄せ
てくる番組群のうねりには、一種の公共放送NHKの正統的な自意識の表れを見て
とることができます。しかし、ここまで「 あからさま」にその「 目論見」が表
れた年は、後にも先にもありません。その意味でも2005年という年は特別であっ
たと言うことができます。
ところで2005年8月の1ヶ月を通じてコンスタントに「 戦争」関連番組が放送
され続けたといえども、さすがにこの年も終戦記念日というピークを超えると数
は減り始めます。そしてそれとともに、テーマも変化します。それは「 日本人
の体験」を超えて、「 戦争」一般を問うシリーズに広がり、さらに「 戦後60年・
歴史を変えた戦場」( 衛星第一)、「 アウシュビッツの真実」( 総合)といった番組
へ――すなわち「 8月15日以後」は、かなり意識的に、「 戦争」と「 現代社会」
の関係を問いかけるべく視野を広げようとしたのだと思います。
一方、民間放送もこの年は相当「 力」を入れました。例年、8月の被爆・終戦
企画にはドラマが多いのですが、大型特番だけでなく通常枠を使いながらドキュ
メンタリーをシリーズ化し、あるいは娯楽番組の中に「戦後」「昭和」などのキー
ワードを入れ込むなど、かなり丁寧な編成の跡を見ることができます。さらに民
放ならではのタレントを活用した情報番組的構成も、ヘビーな題材に対する視聴
者のハードルを下げる効果を発揮し、NHKの番組編成を補完する絶妙な役割を果
たした感があります。
こうして僕は、この年の「 戦争関連番組」78本のリストを作成し、その全体像
に向き合う経験を通じて、もはやそれが単に個別コンテンツの集積に止まるもの
ではないことを知るに至りました。すなわちそれは、全体が一つの「 群」とし
て表れ、特有の時間・空間軸との参照関係の中で、見る者に「波」あるいは「塊」
としてそのコンテクストを突き付けてくる、小さいながら「 意味を持った」集
合体として認識されたのです。
そもそもアーカイブとは何か。それは「 データベース」や「 ライブラリー」
19ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
といった類似概念と何が異なるのか――それまでも何度か、こうした議論に参加
したことはありました。そんな中で今も僕のベースを成しているのは、ミッシェ
ル・フーコーを引いた「 ひとつの時代、ひとつの社会、ひとつの文化において、
<言われること>・<書かれること>の存在論的なステータスを具体的に統御し
ているシステムのこと」( 小林康夫他編『 フーコー・ガイドブック』ちくま学芸
文庫、2006年、p.63)という定義です。それに従えば、アーカイブとは決して
普遍的なものではなく、特定の社会・文化との関係の中に置かれる( システム
を成立させる)「秩序を備えたもの」ということになります。この2005年8月の録
画体験は、ある意味、この定義に具体的な実感を与えるものだったと言えます※7
。
3-2 情報秩序=出会い方を制御する/テレビとインターネット
しかしこれまで述べてきたような「 秩序・統御」感は、この「 戦争番組群」
の場合、「 アーカイブ」として形成されたものというよりもむしろ「 テレビジョ
ン」というシステムに備わっていたものであり、そこからある「 塊」を抜き出
したことによって顕在化したもの、ということもできます。果たしてこれらの
「 群」の意味は、そこに止まるものなのか、それとも「 アーカイブ化する」と
いう行為によって、新しい「 何か」が加わる可能性があるのか――僕の興味は、
次第にそこに移っていきました。つまりアーカイブの秩序は、この場合2005年
8月のタイムテーブル( 時空間編成)を外したところに本来見えてくるもの――
「 アーカイブ的」な人々との出会い方( メディア・コンタクト)とは何か、を
考えることに向かっていったのです。
手がかりは「 デジタル化」の中にありました。例えばインターネットを介し
た情報サービスに目を移してみましょう。その「 情報」との出会いは、どのよ
うにかたち作られているでしょうか。最近は、スマートフォンやタブレットPC
をメイン端末としたアプリケーション・ベースのプラットフォームが若い人たち
を中心に広まっていますが、ちょっと前まで( Windows95以来のこの十数年)
は「検索」がその「出会い」を集約するスタートページの役割を担ってきました。
そのいわゆる「 ポータル・サイト」といわれてきたものが、どのような機能を
もっていたのか――それは一度整理をしておいた方がいいかもしれません。なぜ
ならばそこに、「 データベース」と「 アーカイブ」を分節する要素が散りばめら
れている、と考えることができるからです。
20 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
1996年から2001年の春まで、ポータル・サイトの運営に携わっていたことも
あって(当時は、あまり学問的な裏付けもなく、ですが)、人々がいかにして「知
識」と出会うかについて、経験則も含め、幾つか可能なパターンを考え、それを
サービスとして実装するといったことを仕事にしていました。その時に気づいた
ことは、「 人は、自分が既に知っていることとの関係において、新しい知識と出
会う」ということです。この「 既知」とは何かが結構厄介で、そこには様々な
レベルがある――「 ポータル・サイト」の設計のキモは、要はそれをどう定め
るかにあったわけです。
「 検索」サービスが最も日常的に用いる機能は、キーワードによる探索ですが、
実はインターネット初期、これを使いこなせる人は意外に多くありませんでし
た。それは「そもそもどんな言葉を選んだらいいか」を考えることに、高いハー
ドルがあったからです。キーワードが具体的に思い浮かぶということは、もう既
にその段階で、求める情報とそのキーワードとの関連性が、相当レベルでイメー
ジできていることを示しています。従ってよく言われる「検索」の精度の実態は、
事前に形成されるイメージと検索結果とのマッチングの程度である、と言うこと
ができます。
しかし(既に述べたように)ここには様々なレベルがあります。例えば「ポー
タル・サイト」の「 キーワード検索」に並ぶ主機能に「 ディレクトリ」があり
ます。これは、内包に対する外延というか、探索対象を言葉同士の関係に求める
のではなく、カテゴリーという次元の違う意味集合から階層的に絞り込んでいく
アプローチです。「ディレクトリ」はものごとを概念化、あるいは「分類」「整理」
して捉える発想を持つ人に適合する出会い方で、常に対象を集合の要素としてイ
メージする習慣がある人に適しています。未知な対象についても、既知のカテゴ
リーのリストと対照させることによって範列的に理解し、その理解によってカテ
ゴリーを豊かにしていく作業を通じて、認識世界を広げていく人、と言ってもい
いかもしれませんが、これは全ての人、全ての対象に当てはまるものではありま
せん※8
。
初期( 1990年代)のインターネットへのゲートウエイは、「 キーワード検索
( サーチ)」と「 ディレクトリ」の2つの機能で十分と思われていました。しか
しそれはある意味、積極的に情報に向き合う人に限られていました。それが徐々
にメディアとしてのすそ野が広がるに従って、いわゆるマス・メディア的機能が
ネットに求められるようになり、その結果、2000年代のポータルには「 コミュ
21ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
ニティ」「 コンテンツ」「 ニュース」サービスの充実が求められるようになったの
です。
ポータル・サイトは当時、テレビとは異なる意味で「 パブリックな情報サー
ビス」を目指していました。「 異なる」というよりも、アプローチは「 真逆」で
あったといえるかもしれません。テレビは、同時的中央集権的( =同心円的)
な情報の流れを作ることで、ナショナルな認識共同体を作ることに成功しました。
しかしそれがうまくいったのは、戦後のこの国の社会的なモードが、そのシステ
ムと相補的な関係が築けたからです。しかしポスト・バブル期と、情報の流れの
多様化は、テレビが自らのシステムを成立させるために犠牲にしてきた「 それ
以外の情報接触のあり方」の可能性を開く場を求めました――その期待が生み出
したのが「ポータル・サイト」だったと言えます。
先ほどのアーカイブの概念に従って振り返るならば、「 ポータル・サイト」の
システムは特定の統御の仕方を内包するものではなく、様々な「 出会い」に開
かれることを志向していました。今では、「 ポータル・サイト」も一定の役割を
終え、「 ソーシャル・メディア」なるものが、新たな期待の受け皿になっていま
す。「 ポータル・サイト」が、その理想を実現させることができたか否かを評価
することは簡単ではありませんが、「情報との出会い方」に注目するならば、「テ
レビ」→「ポータル」→「ソーシャル」という展開は、再び特定の統御の仕方に、
パブリックなメディアの原理を委ねる流れに戻ってきているように映ります。具
体的に言うならば、同時的中央集権的から多時間的島宇宙的秩序(コミュニティ
的秩序)へ、と言ったらいいでしょうか。
秩序を内包するという意味で「テレビ」も「ソーシャル・メディア」も、「アー
カイブ的」であると言えます――とりわけその「 コンテンツの集積」という側
面に光を当てるならば( 一方、この論点に照らすならば、「 ポータル」は「 デー
タベース的」であったといえましょう)。しかしそれでも「テレビ」も「ソーシャ
ル・メディア」も厳密な意味で「 アーカイブ」であるとは言えないのは、時間
と空間の参照関係において、それはむしろ秩序本質が「 ネットワーク」性にあ
るからでしょう※9
。
仮説的に定義するならば、「 ネットワーク」は時間を統御することによって利
用者の空間認識を作り出すのに対し、「 アーカイブ」は逆に空間を統御すること
によって時間に対する認識を促す、システム概念であると言えましょう。さら
に言えばこの定義が、「 アーカイブ」と「 ライブラリー」の間に一線を引くヒ
22 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
ントを与えてくれます。「 ライブラリー」は、その空間秩序自体の再生産装置で
あるといえます。ポータルのディレクトリが実体化したものとしての「 ライブ
ラリー」は、「 分類」という知的営みそのものに奉仕する機能に特化していま
す。その点で、具体的な生きられる世界と僕たちの認識との関係で考えるならば、
「 ライブラリー」は「 データベース」に近いポジションに置くことができるで
しょう。
3-3 過去と現在、そして未来が出会う――アーカイブの秩序原理
少し寄り道をしながら面倒な思考実験をしてみたのは、2005年8月の戦争関連
番組の録画とその整理作業をしながら僕が初めて感じた「 アーカイブ体験」と
は何かを、はっきりさせたかったからです。
アーカイブが秩序性を内包すること、空間の統御が時間に対する認識を促すこ
と――テレビの独特の編成から「 切り取って」アーカイブを作るということは、
すなわちその固有の秩序性を逆転させることに他なりません。テレビが「戦争」
を題材にして、同時的映像体験から創造を促す空間認識は、「 ナショナル」とい
うフレームであるといえるでしょう。それが、戦後のこの国に誕生したメディア
の「 パブリック」の次元における使命であり、だからこそこのテーマには、特
権的ポジションが与えられ続けてきたのです。
それを「 アーカイブ化」するということは、そこに別の秩序を与えることを
意味します――実はこのアプローチは、僕が始めたとか、偉そうに言えるもの
ではなく、先行する取り組みがあったからこそ気づいたのですが――桜井均の
『テレビは戦争をどう描いてきたか』(岩波書店、2005年)が、まさにそうでした。
NHKのプロデューサーであった桜井は、実務を介して個人的に保管していた映像
データを素材に( 公式のNHKアーカイブスのプロジェクトとは全く別に)「 私的
アーカイブ」の構築を既に行っていました。この本は、まさにその「 テレビ」
の「アーカイブ化」の記録だったのです。
桜井がその作業を通じて発見した「 秩序」は、「 戦争を語ること」の時間的変
遷でした。「 モノローグからポリローグ、そしてさらなる閉塞へ」という流れは、
まさにその時々刻々移り変わる社会的コミュンケーションのかたちと、NHKの制
作者たちの意識( あるいは無意識)の構造的カップリングの様相を明らかにし
たもので、この「 戦争」表象の集積体は、まさしくテレビが「 介入」し続けて
23ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
きた戦後の「歴史化の鳥瞰図」であったと言えます。
僕は翌年、光栄にもこの本のレビューを書かせていただく機会をいただきまし
た。そこでうっかり筆が滑った僕は、こんな批判的な一文を書いてしまうのです
――「 この作業はもちろん、桜井自身が、ドキュメンタリー制作者であるが故
に成し遂げられたものである――しかし、一方で我々は、この作品が抱え込んだ
もう一つの『閉鎖性』に気づかずにはいられない。すなわち、この作品自体が『制
作者の自意識』を辿る遍路(モノローグ)なのである」(『東京大学大学院情報学
環紀要 情報学研究』No.70、2007年)。つまりこの桜井の仕事は、テレビ制作者
の空間を設定したからこそできたものだと。
これは決して否定的な意味ではなく、むしろそのことによって僕は「 アーカ
イブ性」とは何かという問いに答える一歩が踏み出せました――実際その後の多
くの「 思考実験」の背後には、これをきっかけに開かれた、桜井との対話的実
践があったということを、触れておかずにはいられません。
すなわち「 テレビ番組のアーカイブ化」とは、制作者−視聴者( 送り手−受
け手)の分断によって形成された空間秩序を乗り越えることと僕たちは考えまし
た。桜井はその映像を素材ごとに細かく見つめ、そこに写されている対象を拾い
出し再編集することを通じて、すなわち映像制作そのものを「アーカイブ実践」
として、制作者空間の無意識の中にある「 時代」をあぶり出す方法を提示しま
しました。一方、僕はテレビ番組を見る者が、それを通じてどのような時間体験
をするのか、を分析するアプローチを選択しました。
テレビを見る者は、常に「 現在」の位置にいます。しかしその者がテレビの
モニターを介して出会う映像は、必ずしも「 現在」のものとは言えません。す
なわちその地点は、「 いま」と多様な時間( 特に「 過去」)が遭遇するインター
フェイスであると言えます。その観点から、2005年8月の「 戦争番組群」の時間
表現を分析していきました。するとそこには4つのパターンが浮かび上がってき
たのです。それはドキュメンタリーだけでなく、ドラマや情報番組を含むジャン
ルの枠を越えて表れていました。
Ⅰ <再現> 現在を消し、超越的な位置から、過去を再構成する。
Ⅱ <検証> 現在の位置から、過去の経緯、妥当性、因果性を問い、評価する。
Ⅲ <想起> 個人の記憶のレベルで思い出し、語る。記録映像は妥当性の保証。
Ⅳ <参照> 常に主題は現在を定位する。記録映像はその「現在」に意味を付与する。
24 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
<再現><検証><想起>は、「 過去」を作り出す行為です。ただし、<再現
>は過去によって過去を作り出すのに対し、<検証><想起>は、その立ち位置
は現在にあります。一方<参照>は逆に、過去によって<現在>の意味を保証す
る作業であり、<検証>の対極にあります。<想起>は常に個人の立場で行わ
れるのに対して、他の3つは、その個人の立ち位置を超越する、あるいは客観的、
集団的認識の地平を作り出します。
<再現>は主にドラマの形式を要求します。手元にない「 過去」の資料を、
想像=創造の力を借りて、イメージとして作り出すのです。すなわち単に過去の
位置にとどまっているのではなく、見る者の個人的な印象の力を借りている――
その意味では、<想起>の対極にあるといえるかもしれません。一方<検証>に
は資料映像、<想起>は個人の声( 証言や語り)が主に用いられます。それに
対し<参照>は現在のルポ映像が前景化し、資料や証言が後景でそれを支える関
係で組み合せられます。
番組はこのように多様な方法で、あるいは時に特定「 過去」と「 現在」の映
像と見る者のイメージを結びつけ、そこに「 印象」を生み出します。それが<
再現> ‐ <想起>の軸を中心に構成されればそれはドラマになり、<検証> ‐
<参照>の軸を中心に構成されればドキュメンタリーとなります。昨今の、「 戦
争」をテーマにドキュメンタリーとドラマの形式を併せもったドキュ・ドラマの
手法が多く用いられるといった現象も、それが「 過去」の映像や「 証言」が乏
しくなった現実の鏡である一方で、客観化の困難を<個人>の想像の強さで補お
うという制作者の意識/無意識がそこに働いている、ということから説明可能に
なります。
また、一つの番組内に上記の多様な要素が織り込まれればそれは、バラエティ
的になります。情報番組の場合には、それを構成するバラバラのシークエンスは、
MCの語りでつながれていくことになりますが、現在のこれらの番組の多くには、
客観化されたナレーションではなく、MCのパーソナリティが前景化した「 個人
の声」が用いられています。これは<想起>が、様々なモードを束ねるというか
たちで、一段上の(メタな)機能を果たしているということを示しています。
このように「 過去」を「 現在」に描く番組の中で、<想起>や<再現>が強
化されているということは、「 記憶」の活性化があくまで個人のベースに止まり、
社会化しにくい現状を表しているといえます。
一方、2005年8月の「戦争番組群」の中で大きな「波」を形成していた「NHK
25ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
スペシャル」の基本形式は、( 12日のドラマ『 象列車がやってきた』は除く)<
検証>と<参照>を基本パターンとしたドキュメンタリーにあります。しかしそ
の中にも、個人のレベルにおける「 印象操作」ともいえる技法が多用されてい
ました。それはスチール( 静止画像)や主題に直結するショット、効果音の反
復的使用です。これらは「 印象」の「 象徴化」を促し、記念碑的な像を、見る
者の心の中に刻みこみます。
本来、記憶の社会化を促すべきこれらのジャンル表現の中で、こうした手法が
多用されるということ、すなわちイメージの反復の力を借りて象徴化が促進され
るということは、それ自身が「 シンボル」として機能しづらくなっていること
のメタ次元での表現であり、むしろそれは象徴の負の側面である具体的な現実、
リアル世界との関係の疎遠さを強く表してしまう危険性を示しています。
フロイトはこうした機能に「隠蔽記憶」(リアルな経験の想起に蓋をする:『フ
ロイト著作集6』)と名づけました。このショットあるいは効果音が、「 沈黙を作
り出す」ことに働きかけていること自体がまさに「象徴的」であるといえましょ
う。例えば、昨今の社会を覆う「 右傾化」の意識を、この「 象徴化」の負の部
分が過剰となった結果と捉えるのは、行きすぎた解釈でしょうか。
3-4 ネットワーク化する番組
こうした番組を介した「 過去」と「 現在」の出会いのパターンは、決して単
体の番組に閉じているわけではありません。むしろそこにこそ「アーカイブ化」
の意味が表れてくる――例えば、<想起><検証><参照>に表れる、「 過去」
と「 現在」の往還は、「 見る」という行為が常に現在に縛り付けられているとい
う避けがたい現実によって、番組の殻を破って、複数の映像や声を結びつけます。
「アーカイブ」的視聴、すなわち番組に「群(むれ)」として出会うということは、
テレビが与えたリアルな時空間秩序を超えて、これらのパターンを顕勢化、意識
化する機会を与えてくれるのです。
2005年8月の番組編成についても、制作者たちはこうした番組を超えた関係
性を意識していたことは容易に想定できます。そして一種の「 集合体」として、
これら番組群と向き合うとき、そこには明らかに他の番組との関係自体を主題化
した、さらに言えば、他の番組の要素を折りたたみその中にインデックスとして
取り込んだような特別な番組の存在が浮かび上がってきます。桜井はこうした番
26 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
組のことを、「 ハブ番組」と呼びました。そこを基点に、様々な番組との間に関
係の糸が結ばれていく、それ自身が「アーカイブ」的でありかつ、「アーカイブ」
に探索に入る入口の役割を担う番組です※10
。
僕はこの年の番組群の中に、それを2つ見つけました。一つは、NHKスペシャ
ル『 終戦60年企画 ZONE・核と人間』( 7日21:00-23:15)。もう一つは、TBS放送
50周年記念 戦後60年特別企画『ヒロシマ』(5日18:55-21:48)です。
『 ZONE・核と人間』は、極めて高い象徴性を持った番組でした。ZONEとは放
射能に汚染され、立入禁止となった区域のこと。この番組は、かの戦争における
原爆投下以来、世界中に数えきれないほどに広がった「 ZONE」を訪ね、それを
結びつけていきます。すなわちこの番組では広島・長崎から現代へ、広島・長崎
から世界へという時空間の拡張そのものが企図されているのです。従ってそこに
は外観が与えられていきます。その点で言えば、これははっきりと「 2005年的
現在」における「 核」に対する認識を統御する「 設計・デザイン」が意識的に
施された番組でした。
その特徴は、以下の様に整理することができます。
第一に、「 資料映像」は構成の主役を担っている点。この番組はインタビュー
や現在の取材映像よりもはるかに大量の、過去の番組・作品からの引用によって
作られています。しかも特徴的なのは、それらを素材として結合する際に、音楽
の「 シンコペーション」、フランス語の「 リエゾン」のように連続性やリズム感
覚が意図的に乱される特殊な記述的連辞( C・メッツ)が用いられ、また「 イン
サート」「 ファスト・カット」「 フラッシュバック」など、結合対象間の意味関係
を崩すトランジションも目立つことです※11
。この個々の映像が、番組の内外に
張り巡らされるリンクのノードであることを感じさせる仕掛けは、僕たちの視線
をわざと振り回し、常套句的な象徴性を「 追い払う」かのようです。それはこ
の番組「 ZONE」の主題が、未規定のままこの「 戦後」史の中で放置され続けて
きた「 核の意味」の空虚さを、確信犯的に「 告発」することにあると読むこと
もできます。
もう一つは、番組の中における時間の経過に関する特徴です。リニアさは消去
され、むしろここでは、中盤の折り返し点を境に、前後半が対照を成すように組
み立てられています。この時間が空間にように構造づけられる方法によって、前
半「ZONEが生成されるプロセス」の各点が、後半の「ZONEの現在性(共時性)」
に対称的に/対照づけられるのです。その「 折り返し点」の役割を引き受ける
27ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
のは、沢山の爆発のきのこ雲。この典型的な「 戦争」の象徴映像が、逆にこの
シンメトリカルな構造によって、現実世界に引き戻され、番組を見ることによっ
て、記号のピラミッド(D・ブーニュー)の上昇/下降の「連続する記号過程」
の体験が促されるようにデザインされています※12
。
このきわめてコラージュ的かつ、幾何学的に配置された映像構成は、「 フクシ
マ」を経験した2013年の現在に見直すとき、さらに新しい「 印象」を僕たちに
呼び覚まします。すなわち『ZONE』は、(2005年も、いまも同じく)現在進行形、
あるいはリニアな時の流れから逸脱した、もう一つのメタ時間の可能性を、僕ら
に開いて見せているのだろうと思います。
『 ヒロシマ』は、同様に「 ハブ番組」と言いましたが、どちらかといえば「 作
品的」である『ZONE』とは全く異なる、きわめて「テレビ的」に作られた「番組」
であると言えます。筑紫哲也と綾瀬はるかという2人のナビゲーターが、テレビ
スタジオに模した「 原爆ドーム」前の広場で様々な映像を繋ぎ進行していく大
型番組。TBSのオフィシャルサイトでは「 原爆開発や投下決定に関わった当事者、
被爆者の方々の貴重な新証言、膨大な数の史料を集めたドキュメント、さらに証
言から忠実に制作した再現映像やCGなどによって、60年目に初めて明らかにな
る事実から人類最大の悲劇の『全体像』を描いていく」と紹介されています。
制作者たちはこの番組を「 ドキュメンタリー」と明言していますが、その形
式はまさにジャンルの混交の極みという意味でバラエティ的であり、かつ<再
現><検証><想起><参照>の4つのモードが複雑に入り乱れつつ、ナビゲー
ターの語りの現在性(「 いま・ここ」)に回収されるという、まさに「 時間性」
そのものが、意識されないうちに主題化されていく「アーカイブ的」構成になっ
ています。
しかし『 ZONE』では意図して「 散文的」に素材の結合が仕立てられたのに対
し、『 ヒロシマ』はナマの「 語り」による直線的な流れの幹に、各コーナーが枝
葉のように絡み付く構造になっており、その意味では一見「ふつう」のネオTV的
( U・エーコ)な閉じた予定調和的番組ではあります。ところがそれは、最終場
面に仕掛けられた偶然性によって反転します。「 ハロルド・アグニュー( 原爆投
下機に搭乗していた)と、被爆者の当事者同士の対話」が、かみ合わず、決裂す
る瞬間に、一気に(『 ZONE』とは異なった手法によって)それまでの番組が与
えてきた意味は宙に浮き、結論なき不安な状態に見る者は陥れられるのです※13
。
『 ZONE』の未規定性、『 ヒロシマ』の用意された大団円の決裂は、少し引いて
28 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
見るならば、意味の「 開かれ」に他ならず、時間的なパースペクティブでいう
ならば、結論の先送り=未来の解釈者を招き入れる作りであると考えることもで
きます。これらが「 ハブ番組」であることの意味は、それは「 過去」に対して
だけでなく、「 現在」を介して「 未来」のアーカイブ実践( 再編集、視聴など)
への可能性を担保していることにも、見ることができるでしょう。
その意味の「 開かれ」についてさらに掘り下げるならば、『 ヒロシマ』はか
なりわかりやすく、また番組内外とのリンク関係についての可能性を示した、
チャレンジングなプロジェクトであったと言うことができます。まず冒頭20分
の、まるで映画の予告編を思わせるイントロダクション。この映像は、その大
半が本編のどこかで使われた映像であり、出現順や語りとの対応関係は、必ず
しも本編の文脈に従ったものではないものの、あたかも3時間の番組の中に短縮
版と本編というコンテクストが異にする2つの「 ヒロシマ」が収められているか
のように作られています。また再現シーンの多くが、実はBBCが制作した別番組
『 Hiroshima』からの( 共同制作関係を結んだ上での)利用であるという点にも
驚かされました。さらには別の目的で制作されたCGが、あたかもこの番組の意
図に従って用意されたものであるかのように任意に組み込まれるという特徴も見
られます。
こうした各素材に備わった関係性のノードとしての性質は、作品として非自律
的であることを隠さないことで『 ZONE』に近い役割を果たしているという点で、
「ハブ」的役割を果たしているとは言えるものの、それは「過去」と「現在」(あ
るいは「 未来」)の軸よりも、共時的な関係に重心があるようにも見えます。特
に(2005年当時、この点についてははっきりとした言及はありませんでしたが)
同じ8月に同じ局で放送されたドラマ『 広島』( 29日21:00-23:24)とは、明らか
にその対照を意識した配置がなされており、そこでは番組間の「ネットワーク」
性が意識されていたことは間違いないでしょう。
「 ハブ」番組の存在は、かつてのテレビ・システムにおける時空間編成を超え
た、「秩序」の可能性を示唆してくれます。それは一方では「過去」と「現在」(あ
るいは「 未来」)との関係を開き、他方では「 現在」において様々に並列しうる
表現を結びつけます。「 アーカイブ」と「 ネットワーク」――この段階で、デジ
タル時代( ないしはポスト・テレビ時代)について何かを言うことは早過ぎか
もしれませんが、少なくとも「 テレビ」ではないメディアによる公共性の実現
を考える足がかりを、2005年というこの年に見ることはできると思います。
29ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
3-5 2006年以降――そして徐々に「戦争」は消えていく
戦争関連番組は2005年以降も、数の上では及ばないにせよ( それ以前よりも
はっきりと)意識して作られ続けます。もちろんそこには( 特にNHKにとって
は)重要な制作環境上の背景事情があったのですが、それ以上に「 60年」を契
機に問題が明確に示され、それを継承していく流れができたということの意味は
大きかったといえます。
特に8月前半は、より明確な問いを「 編成」の核に据えるようになりました。
2005年の「 ピーク」に(『 靖国神社』などによって)提起された「 戦後処理」
の問題が、特に15日に向けて主題化されるようになったのです。
● 2005 年 8 月放送
▶ NHK スペシャル「靖国神社∼占領下の知られざる攻防」(13 日)
▶ NHK スペシャル「戦後 60 年∼靖国問題を考える」(14 日)
▶ 日本の、これから「アジアの中の日本∼戦後 60 年・互いの理解をどう深めるのか」
 (15 日)
● 2006 年 8 月放送
▶ NHK スペシャル「日中戦争∼なぜ戦争は拡大したのか」(13 日)
▶ NHK スペシャル「日中は歴史にどう向き合えばいいのか」(14 日)
▶ 日本の、これから「もう一度話そう、アジアの中の日本」(15 日)
● 2007 年 8 月放送
▶ NHK スペシャル「A 級戦犯は何を語ったのか∼東京裁判・尋問調書より」(13 日)
▶ NHK スペシャル「パール判事は何を問いかけたのか∼東京裁判・知られざる攻防」
 (14 日)
▶ 日本の、これから「考えてみませんか?憲法 9 条」(15 日)
「 靖国」「 日中関係」「 東京裁判」は、いずれもこの60年間議論し尽くされてこ
なかった「 戦後」処理を代表する問題で、13日からの3日間、2005年から2007
年の間、ほぼ同じスタイルで( ドキュメンタリーから、15日の一般視聴者を交
30 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
えた討論番組につないでいく)特別編成が採用されたことは注目に値します。特
に13日のドキュメンタリーに用いられた「 知られざる攻防」という言葉は、そ
の当時の対立項を明示するという意味で、<検証>的アプローチを宣言するもの
であり、それを徐々に同時代的問題に軸足を移す<参照>のモードに移行させて
いくという流れを作り出しました。それは、もはや一方向的なテレビ・システム
の情報の流れを超えて、「 コミュニケーション・デザイン」的な試みであったと
さえいえましょう。
また戦争体験者の高齢化に伴う切実な問題として提起された「 証言者がいな
くなる」ことへの危機意識はさらに煽られていきます。それを受けて2007年に
は、放送した戦争関連番組を一覧表示したWebサイト「 Sengo62」と「 証言記
録」を蓄積していくプロジェクトが進みました。こうした動きは2005年以前には、
10年刻みのメモリアル・イヤーにおいても全く見られなかったことです。その
意味で、「 60年」を機とした戦争関連番組の大量生産は、テレビ的なアプローチ
からアーカイブ的なそれへと、「 戦争」を問うかたちの変化を促す契機になった
と言えます。
こうして2005年を契機に生まれた「 過去」と「 現在」との出会いの芽は、し
かし残念ながら、翌2008年を境にして徐々にトーンダウンしていきます。その
きっかけは北京オリンピックにあります。4年に一度開かれるこの「 祭」は、夏
季のテレビ番組の編成を乱し、前後との連続性を途絶えさせます。実際3年間続
いた編成パターンは崩れ、「 戦争証言プロジェクト」などWebをベースとしたも
のを除いて、縮小されていきます。しかし8月以外での戦争関連番組のオンエア
が増えるなど、テレビと戦争のこれまでの定型的な向き合い方に変化を与える
きっかけにもなったと言えます。
2008年の空白以降、「 証言の希少化」の危機はさらに切実なものになり、その
一方で「 新たな資料の発見」が「 過去」との出会いを開くケースの中心となっ
ていきます。ところが当然ながら「 資料」だけで映像を埋めることの困難は大
きく、事実2009年8月9日から11日まで放送された NHKスペシャル『 日本海軍
400時間の証言』、10日の『 最後の赤紙配達人∼悲劇の 召集令状 64年目の真
実』( TBS)などは、ともに埋もれていた資料の発見を契機に作られ、事実の凄味
を認識させる良質な企画ではありましたが、<再現>ドラマに頼らなければなら
ない苦しさを露わにしました。
2010年からは、直接の証言を得ることがさらに難しくなり、番組数の減少に
31ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
加え、戦争経験の次の世代にフォーカスを当てるか、あるいは「 記録」から<
検証>へ向かうプロセス自体を取り上げるといった比較的地味な印象が否めなく
なりました。そして2011年――震災後の最初の夏は原発事故と、かの戦争にお
ける被爆との関係を問う企画が中心となり、2012年のロンドンオリンピックで、
「夏=被爆・終戦の季節」といった印象は消えていきます。
この原稿を書いている2013年春現在、この先「 戦争」をテレビがどう描いて
いくのかについて、断定的なことは何も言えません。しかし少なくともその対象
との距離は今後も開く一方であることは間違いなく、「 過去」にしっかり出会う
ことができない僕たちが、具体性を欠いたイメージに頼って、何か誤った判断を
してしまう危険性は一層高まるでしょう。その点において、2005年から数年に
わたる、まさにテレビ・システムからアーカイブ的な視聴体験への移行が、その
後やや途切れ気味に見える現状は、大いに気になる事態です。
4-1 「戦争」的パースペクティブの死角
既に述べたように僕は、2005年8月に放送しされた戦争関連番組の録画による
「私的アーカイブ」構築作業を通じて、テレビ・システムが有する秩序とは、「同
時かつ一方向性」という時間の統制によってナショナルな空間を創造するもので
あることを確認するに至りました。そしてその番組群の主題は分析を進めるに
従って、徹底的に国家・国民的パースペクティブ自身への問いを志向しているこ
とを実感していったのです。
それは確かに戦後のテレビ的公共圏におけるアジェンダとしては、適合的で
あったといえるかもしれません。しかし今、「テレビ」から「ソーシャル・メディ
ア」へとメディアの重心がシフトしていく社会の中で( そして「 戦争」という
「 過去」が遠ざかる中で)、果たしてそれに縛られていることが必然であるかど
うか、それ自体が問われるべき課題になりつつあるとも言えます。
この問い直しは、幾つかのステップに分かれます。まず、かつてのテレビ時代
における「 戦争」への問いに死角はなかったか。それは、被爆・終戦∼戦後処
理がナショナルなアジェンダとして特権的に扱われていた一方で、「 消えて行っ
4.「地域」という空間枠の設定――アーカイブ的秩序原理へ
32 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号
た過去」はなかったのかという問いです。これこそまさに、本論の主題である
「 集団的( 社会的)に記憶を失う現象」に対する検証であり、テレビが作り出
した象徴が、隠蔽記憶として働いていなかったかを考えることでもあります。
「 アーカイブ」的な秩序原理がテレビとは反対に、空間の規定から時間認識の
創造へ向かうとするならば、ここで必要になるのが、「 ナショナル」に代わる空
間枠の再設定です。移行期の端緒( 2005年)において「 ハブ番組」が試みたそ
の組み換えは、「 ナショナル→グローバル」という視角の拡大でした。『 ZONE』
はその典型であるといえますが、結果そこでできたことは、「 きのこ雲」という
象徴の異化、意味の宙吊りに止まるもの――残念ながら、僕たちはそれに新たな
意味を与えることができませんでした。それは『 ZONE』の表現と、それを受け
止める主体のリアリティとの間にずれがあったからではないかと思います。
「 グローバル」な死角は、ある意味「 ポータル」の無規定性を要求した時代に
対応するものだったと言えます。「 ナショナル」な視角のオルタナティブは、そ
れとは逆の方向、すなわち記号のピラミッド( D・ブーニュー)で言うならばさ
らなる象徴化を求めるのではなく、リアルな現実との関係性を構築するインデキ
シカルなダイクシス(「あれ」「これ」といった指示詞が機能する空間)を想定す
ることにあったと考えるべきだったのです。ちなみにこの転回は、「 ポータル」
から「ソーシャル・メディア」への志向の変化にも対応します。
ところがこの転回は、インターネットの普及に先んじるかたちで、「 テレビ」
「 新聞」といった既存のマス・メディアに対するオルタナティブを求める動き
の中に、1990年代後半から表れていました。ケーブルテレビやコミュニティ
FMをベースとした「 地域」とその担い手である「 市民」によるメディア実践
は、マス・メディアの肌理の粗さを補完する可能性を持ったものとして、研究者
たちの注目を集めていました。僕自身もそうした活動を、かつての「 放送」が
理想とする民主主義的公共圏の実現に向けたベクトル上にあるものとして見なし、
関心を寄せていました。当然そこでは「 誰が」「 どんな目的で」それを行うかは、
極めて重要な意味を持ちます。
その中で2005年に出会ったのが、鹿児島県鹿屋市を中心に大隅半島の自治体
を結ぶNPO法人によるラジオ局( おおすみFMネットワーク)設立の話でした。
地上波(AM)の中継局が廃止となり、電波が届かなくなることに危機意識をもっ
た人々が、文字通り「 手作り」の放送局を作る――この取り組み自体がまさに
オルタナティブな動きであり、僕はそれの応援団の一人として2006年の夏、訪
33ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
問することになりました。鹿屋といえば、現在も海上自衛隊の航空基地があり、
かつては「 特攻隊出撃」の記憶と記録が残された町でもあります。偶然といえ
ば偶然ですが、この土地で2つの関心が出会ったわけです。
鹿屋には、航空基地史料館というオフィシャルな「記録」の保管庫だけでなく、
多くの戦争の遺構が遍在していました。しかし「 そこに基地がある」にも関わ
らず、「 よそ者」の僕には、その記憶の影は薄いように感じられました。資料館
に所属する「 語り部」の話を聴き、街あるきをする中でも、鹿屋の「 現在」の
風景と、ややステレオタイプ化された「特攻隊」や「地域空襲」、「占領軍上陸」
の物語との間には、どうも認識フレームのずれがあるように思われたのです。
そんなある日、ラジオ局を支える地元の女性たちの集まりがありました。そこ
に招かれた僕は、不思議な経験をしました。その会は、そもそもはその仲間の
一人である地元の朗読サークル「 ポエム」の中西久美子の「 語り」を聴こうと
いう目的の集まりだったのです。その日、中西が「 そら」で語ったものこそが、
僕がこの地で「 発掘」研究を行うに至ったきっかけとなった物語、竹之井敏作
『 冬の波』でした。昭和19年( 1944年)2月6日、おおすみ半島の入口である垂
水港と鹿児島市を結ぶ地域の大動脈「 垂水航路」で、「 第六垂水丸遭難事件」と
呼ばれる沈没事故が起こりました。それは海難審判所( 元・高等海難審判庁)
の記録によれば、死者464名という一般船舶の事故としては史上二番目に数え
られる大規模な事故でした( 高等海難審判庁『 海難審判制度100年史』1997年、
p.109)。物語は、その犠牲者にまつわるものだったのです。中西の話は、初め
て聞いた僕の胸に深く沁みるものでした。
しかし驚いたことは、その「 地元地域」の物語を、そこに暮らす人のほとん
どが知らなかったのです。物語というよりも、その事実そのものが、地域の人々
の「記憶」から消えてしまっていたのです。ちょうど2005年8月の戦争番組の「私
的アーカイブ化」を進めていた僕には、この物語と人々の反応が、奇妙なコント
ラストに映りました。「 口承」という古典的な伝達方法、「 記憶」が失われると
いう現実、昭和19年2月という時期、そして「 あくまで個人的に語られる<死>
の理不尽さ」という物語内容自体も含め、ここで出会ったことがらはテレビやマ
ス・メディアを通じて言わば刷り込まれてきた「 戦争の記憶」とは、激しく異
質なものに思えたのです。
この段階では、まだそれは「 研究的関心」というには程遠いおぼろげなもの
に過ぎませんでした。しかしこれまで前提としていた、マス・メディアを支える
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『ライブラリー・リソース・ガイド(LRG)』第3号(2013年5月)

  • 1. LRGライブラリー・リソース・ガイド 第3号/2013年 春号 発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社 Library Resource Guide ISSN 2187-4115 図書館における資金調達(ファンドレイジング) 特集 嶋田綾子・岡本真 特別寄稿 水島久光 記憶を失うことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
  • 2. LRG Library Resource Guide ライブラリー・リソース・ガイド 第3号/2013年 春号 発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社発行/アカデミック・リソース・ガイド株式会社 図書館における資金調達(ファンドレイジング) 特集 嶋田綾子・岡本真 特別寄稿 水島久光 記憶を失うことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践
  • 3. 2 巻頭言 ライブラリー・リソース ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号 当初の心積もりよりやや遅くなったものの、『 ライブラリー・リソース・ガイド』 第3号ができあがりました。特に今回は各地の図書館関係者に編集のご協力を賜り ました。心から御礼を申し上げます。 少しだけ内情を申しますと、「 図書館システム」を特集した第2号の売れ行きがあ まりよくなく、この第3号の売れ行き次第では、『 ライブラリー・リソース・ガイド』 は進退きわまる事態になるかもしれません。本誌をご評価いただけるようでしたら、 この第3号に加え、第2号もお買い求めいただけますと幸いです。 さて、この第3号は、創刊号や第2号と同様、  ●特別寄稿  「記憶を失うことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践」(水島久光)  ●特集「図書館における資金調達(ファンドレイジング)」  という2本立てとなっています。 水島久光さんは、メディア論などを専門とする研究者です。『 閉じつつ開かれる 世界』(勁草書房、2004年)、『テレビジョン・クライシス』(せりか書房、2008年) などのご著書をお読みになられた方もいらっしゃることでしょう。水島さんのライフ ワークの一つが、論考の副題にもある「アーカイブ」です。夕張、鹿児島、東北と、 3つの地域を背景とした議論は、皆さまに様々な示唆を与えてくれるでしょう。アー カイブ論の画期の一つとなる論考であると、私どもは自負しています。 巻頭言 実践する図書館のために
  • 4. 3ラ イ ブ ラ リ ー ・リソース・ガイド 2013 年 春 号 巻頭言 また、水島さんは本誌発行元であるアカデミック・リソース・ガイド株式会社が 入居するシェアオフィス「 さくらWORKS<関内>」の入居者でもあります。編集、 執筆、デザインのすべてをこの共同オフィスの入居者でまかなってきましたが、つ いに寄稿者まで得ることができたことをひそかに喜んでいます。日常的に議論し合 える関係という、文字通りの「協働」が生み出したという背景にもご注目ください。 特集「 図書館における資金調達( ファンドレイジング)」は、本誌の創刊時から 必ず実施すると考えてきたものです。資金調達(ファンドレイジング)の重要性は、 図書館業界の関係者の誰もがうなずくところでしょう。しかし、その重要性にも関わ らず、網羅的かつ体系的な特集が、図書館関係の雑誌で組まれたことはありませ ん。その理由をここでは問いませんが、手前味噌を承知で、言うなれば幻の企画 が本誌で実現できたことを素直に喜んでいます。 せひ、紹介する事例とその事例にみられるノウハウを引き出し、自らも資金を調 達できる図書館が増えていく一助となれば幸いです。 編集兼発行人:岡本真 責任編集者:嶋田綾子
  • 5. 巻 頭 言 実践する図書館のために[岡本真]……………………………………………………… 2 特別寄稿 「記憶を失う」ことをめぐって     アーカイブと地域を結びつける実践[水島久光 ]…………………………………… 5 特  集 図書館における資金調達(ファンドレイジング)[嶋田綾子・岡本真]………………… 63 LRG CONTENTS Library Resource Guide ライブラリー・リソース・ガイド 第3号/2013年 春号 「ふるさと納税」を利用する  [Case01] ふるさと納税で、児童書を整備  [Case02] 納税者に「としょかんカード」の発行  [Case03] 失効したポイントを利用する  [Case04] 寄付された1000万円で、3043冊を購入  [Case05] 寄付金で、児童書の購入やデジタル民話を作成 寄付を募る  [Case06] 館内に募金箱を設置  [Case07] 書庫整備のために寄付を募る  [Case08] 寄付者に、フレンドリー利用証を発行  [Case09] 300万以上の寄付で終身の特別利用証を発行  [Case10] 基金で、被災した図書館の建て替えを目指す  [Case11] 図書館まるごと寄贈を受ける  [Case12] 地域の風習と寄付を組み合わせる  [Case13] 人生の節目に寄付を提案  [Case14] 館内に設置した自販機の売上げを寄付  [Case15] クラウドファンディングに図書館ならではの引換券 本の寄贈を募る  [Case16] 所蔵できない雑誌の号を寄贈で募る  [Case17] 全国有数の社史コレクションを寄贈で作る  [Case18] 友の会が寄贈本を集め販売  [Case19] 寄贈本だけを所蔵する図書館  [Case20] 「Amazonほしい物リスト」を活用した寄贈  [Case21] 寄贈本にメッセージ  [Case22] 寄贈者と図書館をマッチング(1)  [Case23] 寄贈者と図書館をマッチング(2) 雑誌スポンサー制度を利用する  [Case24] ベーシックな雑誌スポンサー制度導入館  [Case25] 雑誌への広告掲載料をとるモデル  [Case26] NPOが仲介する雑誌スポンサー制度 広告を募る  [Case27] 貸出用レシートにクーポンを印字  [Case28] 図書館への広告掲載事業 ………………………… 70 ………………………………… 77 …………………………………… 92 ………………… 104 ……………………………………… 112 ……………………………… 118 ……………… 123 ……………………… 126 …… 138 寄付・寄贈篇 ………………………………… 69 広告篇 ………………………………………… 103 販売篇……………………………………………117 交付金・助成金篇……………………………129 さまざまな方法を 組み合わせた資金調達 ……………………………143 ………………………144 除籍資料を販売する  [Case29] 除籍資料を1冊、100円で有償配布  [Case30] NPOが、除籍本を販売  [Case31] 常設コーナーで、除籍資料を販売 図書館が作成したものを販売する  [Case32] 図書館で作成したレファレンス資料の販売  [Case33] 図書館内でのオリジナルグッズの販売 オンライン書店と連携する  [Case34] 検索結果を、オンライン書店に誘導  [Case35] アフィリエイトの利用  [Case36] 住民生活に光をそそぐ交付金事業  [Case37] 科学研究費助成事業  [Case38] 科学技術コミュニケーション推進事業  [Case39] 地域情報化アドバイザー  図書館事業に役立つ、交付金・助成金制度     民間の図書館における実践  [Case40] 寄付やグッズ販売で、活動資金を調達する  [Case41] 支援者の立ち位置に寄り添った支援調達  [Case42] 寄付金や物販で「稼ぐ」図書館  [Case43] ボランティアと「寄付・寄贈」で運営  [Case44] 支援者と協力して、図書館を運営 参考文献 ………………………………………… 154 アカデミック・リソース・ガイド株式会社       業務実績 定期報告 ………………………………… 156 定期購読のご案内 ………………………………… 158 次号予告…………………………………………… 159
  • 7. 6 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 これから申し上げるのは、「 記憶は、どうやって失われるか」ということに関 するお話です。とはいっても「 記憶喪失」という言葉で語られるような、症状 や障害のことではありません。「 個々人」単位で起こるこうした現象は、主に精 神病理学的に扱われますが、今回のお話は、それは往々にして「 集団的」ある いは「 社会的」、もっと突っ込んだ言い方をするなら「 歴史的」に生じうるとい うことに焦点を当てたものです。 それは決して珍しいことではありません。というよりむしろ「 人間は忘却の 生き物である」といわれるように、忘れることの方があたりまえで、記憶を維持 し続けることの難しさはみんなが知っています。だから、私たちは子どもの頃か ら一所懸命「 記憶」する技術を学び、ときに「 記録」することで、補完しよう としてきました。でも天邪鬼な僕は、ある日不思議に思ったのです。本当に、忘 れることは自然なことなのだろうか、と。 1. はじめに 東海大学文学部教授。広告会社、インターネット企業を経て、2003 年に着任。メディアのデジタル化が主な研究テーマ。「映像アーカイ ブ」に関係する実践を多数行っている。著書に『閉じつつ開かれる 世界』(勁草書房、2004年)『テレビジョン・クライシス』(せりか書房、 2008年)、『窓あるいは鏡』(慶應出版会、2008年、共著)、監訳書に 『コミュニケーション学講義』(D.ブーニュー著、書籍工房早山、2010 年)がある。BPO放送倫理検証委員。 アーカイブと地域を結びつける実践 水島久光(東海大学文学部) 記憶を失う ことを めぐって
  • 8. 7ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 一方で集団を成す生き物である人間は、この忘却を他者との関係によってカ バーする術を磨いてきました。「 社会」はすなわち、記憶の集積によって築かれ ると言ってもいいかもしれません。世界中の様々な民族が固有の神話を持ってい ることが、社会と記憶の密接な関係を表しています。記憶を集団的に構築してい くためには、その組み立てを組織的に行う必要があります。そこには当然、権力 装置が不可欠であり、「 選ばれる記憶」と「 捨てられる記憶」の区別が設けられ ていきます――これまで「 集団的」な記憶喪失は、こうした権力装置による統 制の結果として、また政治学的なカテゴリーにおいて語られてきました。 しかし、それだけで「 集団的」に記憶を失うという現象を語り尽くすことは できるのでしょうか。統制はむしろ、生来、人間にそなわった忘却のメカニズム に乗じて、人々の記憶への介入、操作を企図したものではないのでしょうか。僕 たちは統制の強制力を意識することができます。ゆえにそれに対するストレスが 原因となって、逆に記憶を内面において強化するということも、少なからず経験 してきているでしょう。つまり「 覚えている」「 忘れてしまう」という現象は複 雑で、そう簡単に説明できることではないのです。 20世紀はマス・メディアの時代だったといわれます。新聞、ラジオ、テレビ といった強力な記録・伝播システムが、この100年間で一気に日常生活を覆い 尽くしました。その間に2つの世界大戦があり、その後は数々の地域紛争が勃発 し、グローバル経済の発展があり、そしてバブル経済の崩壊がありました。ざっ と振り返ってみるだけでも、僕たちの記憶と忘却に関わる環境変化は、このよう な世界の「マス」化をめぐる攻防との関係で考える必要があることがわかります。 記憶や忘却の集団性は政治、経済、文化を横断するような社会システムの変化に 媒介されているのです。 その文脈で言えば、前世紀末から畳み掛けるように起こっている政治、経済、 文化の変化、そしてそれを支えるメディアの動きは、この20世紀型の「 マス」 化とは異なるベクトルで、新たな秩序が形成され始めていることを予感させてく れます。「 国家」という枠組みの再考と再編、財政破綻と金融危機、現在進行形 で語られるこれらのアジェンダの背景には、各社会システムを通底するテクノロ ジーの総デジタル化があります。 いま僕たちは数百年に一度の「変化」に直面しているのです。その中で「情報」 になんらかの関わりを持つ仕事をするということは、どんな意味を持つのか―― なんだか、一気に話が大仰になってきたように感じられるかもしれませんが、そ
  • 9. 8 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 れは「 社会」が「 記憶システム」である以上、避けることができない問いでは ないかと思います。大事なことはその「 社会」が、一人ひとりから成り立って いるということ。こういう時だからこそ、個人的な記憶/忘却が集団的な記憶/ 忘却に結びつくプロセスや、顕在化した社会システムおよび統制の後景にあるメ カニズムに、接近する努力を怠ってはいけないように思います。 僕はここ数年、この難しい問題に具体的な「 地域」に生きる人々の具体的な 「 トピック」からアプローチしてきました。最近、ようやくその問題の輪郭が 見え始めたような気がしています。この原稿を書こうと考えたのも、この時期だ からこそ書けるデッサンを、肌理の粗い筆致かもしれないが残しておこうと思っ たからです――僕自身の「 記憶」と「 忘却」を素材に自問自答することは、そ れこそ「 この時代の当事者」として、「 情報」に関わる仕事の意味を問い直す作 業につながるのではないかと。 2-1 テレビ・システムと社会システム 僕はもともと放送研究をなりわいにしてきました。番組を記号論的に分析して 論文を書く一方で、この巨大メディアのデジタル化に興味をもち、その全体の動 向を解釈すべく、変化の兆候に目を凝らす作業を続けていました。 かつてテレビは「 集団的な記憶装置」たることによって、20世紀の僕たちの 生活を覆うことに成功したといわれています。実際、1961年生まれの僕は、ま さに自らの記憶を構成するイメージの多くがテレビのモニターに依存しているこ とを自覚しています。しかしそれは物質的な、あるいは技術的なカテゴリーとし てのテレビの機能に依存しているというよりも( それ自体が記憶システムであ るところの)、「 社会」が、その生成原理をテレビに委ねていたことの表れとい えます※1 。 テレビがどのようにして「 社会化」を担ってきたか――それはこのメディア が特にかたち作ってきた時間と空間との関係に支えられてきました。地上波の物 性と戦後民主主義の要請は、生活の実時間を参照軸に番組を編成し、同心円的に ナショナルな空間を覆う系列の秩序化を促しました。その結果私たちは同じ時間 2. 導きの糸―テレビから、ポスト・テレビ時代へ
  • 10. 9ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 と空間を共有するヴァーチャル感覚を身につけ、それを媒介に「 社会」を認識 するようになったのです。 実際、テレビは意識的あるいは無意識的に、60年間そのシステムの再生産に 努めてきたと言えます。U・エーコが「 ネオTV」と命名したように、1980年代 以降、特に顕著にテレビは、自己言及的に組織構築していく運動体へと純化して いきました。矛盾めいた言い方をしますが、僕はそのことがテレビ自身の手に よってテレビ時代の黄昏を生み出す契機となったと考えています※2 。 テレビ・システムの純化が進む一方で、それとカップリング関係にあった「社 会」も、自己組織的に、少しずつその形を変えていきました。資本主義の原理で ある拡大再生産( マス)モードは、時空間秩序に準拠した物理的限界まで広が り尽くすと、今度はその秩序自体を崩すことで、「 情報」という目に見えないモ ノの増殖を促し、それによって自己保存を図る方向にシフトしていきました。既 に僕たちの社会は、地理的には一部の独裁政権を除き、24時間、360度の全てが 「市場」に覆い尽くされています。 旧来のテレビ・システムの限界は、こうした社会環境の変質との関係で考える ことができるでしょう。デジタルメディアの普及、あるいはあらゆるメディアの デジタル化は、「 拡張」が物理対象の地平から離陸し、別の( 数理的)次元にそ の主戦場を求めていった結果なのです。しかしそうなると、本論の主題である 「記憶」の問題は、どう考えたらよいのでしょうか。「社会」が「記憶システム」 として成立するという前提を踏まえるなら、それが「 情報」として、物理的現 実から離れていこうとしているという事態に、僕たちはどのように向き合うこと ができるのでしょう。 少し具体的な事柄に引きつけて、このことを考えてみましょう。それは「 戦 争の記憶」という問題です。日本のテレビにとって( 特に公共放送たるNHKに とって)、ずっと「 戦争」は特別なアジェンダでした。それはこの国の放送の歴 史と深く関わっています。かつて政治の支配下に置かれたメディアは、戦後民主 主義体制の構築過程の中でリ・デザインされ、テレビ放送は( 沖縄を除く)日 本の主権回復の翌年に、それを支えるものとしてスタートを切りました。した がって、戦争・戦後というワードは、このメディアのレゾン・デ・トルと深く結 びついているのです。 ここでいう「 戦争」は、もちろん一義的には、かの満州事変に始まるアジア 太平洋15年戦争のことを指します。しかしテレビは、必ずしも直接的にその「記
  • 11. 10 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 憶」を指し示していたわけではありません。 桜井均は『 テレビは戦争をどう描いてきたか 映像と記憶のアーカイブス』( 岩 波書店、2005年)でこのことを指摘していますが、彼が言うところの戦後およ そ40年あたりまで繰り返される戦争言説の「 モノローグ性」は、「 記憶」への向 き合い難さに対する的確な表現ではないかと思います。生々しい「 印象」を言 語化することもできず、また特に戦後すぐは、それを助けてくれる資料も多くが 公開されないままの状態にあったわけで、戦後の人々の「 戦争の記憶」は、長 らく「近くにあれども、語り難い」対象であったのです。 テレビはそうした人々の心性を映し出す「鏡」であったと言えます。NHKの『日 本の素顔』から『 現代の映像』『 ある人生』へと続く初期テレビ・ドキュメンタ リー、あるいは民放( TBS)で村木良彦や萩元晴彦が行った新しいテレビの可能 性を問う実践番組でも、「 私、あなた」と「 いま」という直接的な言及対象を介 して、影絵のように、戦争という「過去」と、それをもって個を圧迫した「社会」 を思い描くアプローチが採られていました。それが徐々に「 過去」に遠ざかり、 資料が開示されるとともに記憶が社会的に組織され、他者性を帯びていく――こ の変化について、僕たちはもう少し自覚的であってもよかったように思います※3 。 2-2「2005 年」はなぜ振り返るべき節目となったのか その点では2005年、「 かの戦争」の終結から60年という節目は、最も戦争の記 憶に関する言説が「 多声的( ポリフォニック)」な様相を呈した年ではなかった かと思います。それまでも日本人は、10年単位でメモリアル・イヤーを設定し、 戦争を振り返ることをしてきました。しかしそれは先の桜井の指摘にあるように 心理的にも、資料的にも、また研究としても十分に「開かれたもの」ではなかっ たことは確かなようです。坪井秀人も文学研究の立場から、著作『 戦争の記憶 をさかのぼる』(ちくま新書、2005年)でそのことを検証しています。 しかし2005年はさまざまな条件が重なり、「 かの戦争」を振り返る言説がメ ディア上に溢れかえりました。天皇崩御から16年が経過し「 昭和」という時代 に一定の距離をとることが可能になったこともあるでしょう。同時に東西冷戦 の終結からほぼ同じだけの時が流れ、世界的に「 戦争」や「 紛争」を問い直す ムードが出てきたことも見逃せません。しかし何よりも大きな影響を与えたのは、 2000年に米国で「 日本帝国政府情報公開法」が成立し、アメリカ国立公文書記
  • 12. 11ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 録管理局などが保管していた戦時下の日本に関する記録が、一気に機密指定から 外れたことでしょう。それまで明るみに出ていなかった様々な事実が、検証可能 になりました。 それに併せてもう一つ、決定的な変化が起こり始めていました。それは戦争体 験者の老化という避けがたい事実と、それに対する体験者自身および、彼らを取 り巻く人々の心の変化です。気がつけば60年という時の流れの中で、既に「 戦 争」を自らの言葉で語りうる多くの人は鬼籍に入り、ドキュメントの軸足は「記 憶」から「 記録」に移り始めていました。存命の人でも、当時既に成人に達し ていた人は80歳を超え、特に戦地の過酷な経験を持ち、口をつぐんでいた兵士 や在外者の中には、やがて訪れる「 自らの死」に向き合う意識から、言葉を発 し始める人々が現れ始めたのです。 また「 かの戦争」に対して高い意識を持つ戦後世代、特にジャーナリストた ちは、この記憶と記録を媒介する「 証言」という行為に注目をし始めました。 体験者を潜在的証言者として位置づけ、その希少化から言葉を拾うことに群がる 一種の「 証言ブーム」が、この年を契機に加速し始めます。それはそれで大事 なことなのですが、この「 大量生産」は証言に対する無批判性を生み出すよう になっていきます。記録に残さねばならないという使命感が集合的実態を伴うよ うになってくると、その「証言」の数の大きさがポジティブな雰囲気を醸し出し、 その内容の多様さに対する関心を相対的に薄れさせるのです。 実際、「 記憶」とは極めて複雑で、不確かなものです。それまで口にすること を躊躇っていたことがらでも、人は思い出すこと自体を完全に封じ込められるわ けではありません。おそらくその個人の脳裏においては、ことあるごとに何度も それは想起( recall)され、そのたびに「 更新」されてきたはずです。その意味 で「 記憶」とは、決してその対象である出来事との最初の出会いから、フリー ズしたまま時を超えて運ばれるものではないと言えます。「 言葉」は、その更新 に大きな役割を果たします。頭の中に止まってきたイメージが言語化され外化さ れるとき、記憶にはその時々の様々な「 いま」が絡み付き、新たな文脈の中で 再生されることになります。 その中でも、「 証言」は語る行為と語られる内容の時制が交錯するという意味 で、特異な表現態であるといえます。すなわち「 証言」は、それ自体の形式に おいて「 記録」として扱われうる必然性は備わっておらず( オーラル・ヒスト リーの作法においても、それが「 記録」と見なされるのは、「 筆記者」によって
  • 13. 12 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 書きとめられる限りにおいてである)、その語りの対象内容と、聞き手との関係 の間にあって、偶然的にそうであるにすぎません。 その意味で戦後60年というタイミングは、戦争という「 対象」と、聞き手 ( ジャーナリストたち)の「 ニーズ」が重なり、体験者たちの過去に関する語 りを貴重な「 証言」として記録化するフレームとなったと言えます。それにさ らに重なったのが、先に述べたような元機密資料の公開です。こうして「証言」 と「 資料」の出会いが、この時期のドキュメンタリーの中に「 新たに発見され た資料をもとに、寄せられた証言とともに過去の出来事を検証する」という宣言 をクリシェ(常套句)として生み出していったのです※4 。 専ら「 いま」を描くメディアとして君臨してきたテレビが、「 過去」を主題と することは、様々な困難をその中に抱え込むことを意味します。「 検証」はもち ろん、その時間の隔たりを埋めるための一つのアプローチですが、しかしそれは よく考えれば、決して簡単なことではありません。しかし、かのクリシェは、特 に形式化が進んだテレビ・ドキュメンタリーのアバンタイトル( タイトル前の 概要紹介シーン)の中に、そもそもそれが番組の自明の目的であるかのように挿 入されています。 この年から数年の間、戦争に関するドキュメンタリーは、その前後と比較して も積極的に制作されたように思います。しかしそれらは本当にアバンタイトルの 「 宣言」どおり、あの過去の出来事の「 検証」をしたのでしょうか。そもそも 「 検証」とは、何をする行為なのでしょうか。それは「 記録」と「 証言」をた だ「棚卸し」し「陳列」することと、どこが違うのでしょうか――2013年の「い ま」、2005年を振り返るべき節目と考えることは、一つのメモリアル・イヤーで あることを超えた、大きな問題がその時期に実は提起されていたということ、そ して「 同時代的感覚において」その問題を見落としていたことを( 遅ればせな がらではあっても)確認するということに他なりません。まさにミネルヴァの梟 のような話ではありますが。 2-3 時空間認識のパラドックス とりあえず議論を先に進めるために、まず「 ざっくり」と、2005年を境に僕 たちをとりまいている「 メディア」と「 社会」のカップリングの仕方に、何ら かの変化があったのではないか、という仮説を立ててみようと思います。
  • 14. 13ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 それはおそらく、「 事実」に対する感覚に表れていると言えましょう。僕たち は日常会話レベルでは、結構ナイーブに「 事実」という言葉を使っていますが、 よくよく考えてみればそれは極めて危うい扱いの難しい概念です。「 事実」は多 くの判断を支える根拠として求められる一方で、それ自身は常に「 媒介的」に しか立ち現れることができません。 「 ありのままの事実なんてものはない」「 それは必ずどこかの視点からの『 見 え』でしかない」――これらはジャーナリズムやメディア論の基本中の基本の テーゼであり、社会認識の出発点とされてきたことでした。それは科学的認識に 関しても、大きな違いはありません。常識とされてきた知識も、その多くは「人 間」と「 自然」との対立関係を前提とした、技術論的パースペクティブの下に あることは、今や多くの人々が認めるところです※5 。西欧中心主義やデカルト的 な近代意識の超克といった議論は、多かれ少なかれ、20世紀における認識批判 によって導かれたものと言えます。まあ、その行き過ぎたものとして、「ポスト・ モダン」的相対主義に陥る場合もありましたが。 ところが昨今まわりを見回すと、いつの間にか再び、かのナイーブな「事実」 主義(「 事実」なるものへの無批判性)が広がってきているように思えます。東 日本大震災以降、それはさらに加速して、「 マス・メディアは嘘をつく」「 政府・ 官僚・学者は事実を隠ぺいする」と声を荒げ、糾弾する人々を日常的に目にする ようになりました。「 事実」は認識し得て当然、もしそれができない場合、そこ には何らかの悪意が存在するという決めつけに走るこの極論、安易さには、むし ろ20世紀以前の状態への回帰というよりも、何か未曾有の事態の到来を感じず にいられません。 この「 事実」に対する認識の急転回は、社会全般の「 不寛容さ」の増大と結 びついています。「 本音」を晒すことが、さも潔いかのごとく、言葉を選ばずに 他者を攻撃する人々が、このように白昼堂々、往来を闊歩するような時代が来る とは、正直思ってもみませんでした。それは無邪気に迷彩服を着て、戦車に乗り 込みポーズをとるような人が、一国の首相なのですから、「 さもありなん」とい うことなのかもしれません。この「 右翼的思想」の広がりだけでなく、レイシ ズムも反レイシズムも、双方が視野狭窄に陥っているようなこの状態をみると、 あの認識批判の時代は、どこにいってしまったんだろうと不思議に思います。 それは「 事実」に対する意識的な絶対視というよりも、むしろ逆に短絡、す なわちその透明性を生み出す技術に対する無自覚が生じているように僕には思え
  • 15. 14 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 ます。既存の「 目に見える対象」をとりあえず肯定するが、仮に確からしきも のがそこに「 見えない」ときには、反射的苛立ちが抑えられないといった衝動 が剥き出しになった状態――つまりそこでは「 何が」見えているのか、その対 象の内容には関心がなく、とりあえず「何かが」見えているという「メタ状況」 にあることが大事なのです。 それは自らの存在の確かさが失われた状態であり、その病理は遠近感を失った、 「 生きられる世界」に対する感覚機能の劣化に求めることができます。僕たち の遠近感の基本は時空間認識であり、過去と未来の間に現在を、HereとThereの 間に距離を設定する能力にあります。いま、多くの人々が次々に存在の不安を直 接/間接に訴え、そこにいつの間にか68年前に終わったはずの「 戦争」の姿が 亡霊のように現れ、不安を不安で相克しあうようなオカルト的世界が展開し始め ているという現実は、時空間認識が崩れた極めて危険な状況であるとしか言いよ うがありません。 この「 事実」に対する麻痺、あるいは痙攣的な無感覚状態は、しかしながら よく考えてみれば、「 情報化社会」においてよく見られる「 日常の風景」の範列 の一つとも言えます。何かを考える前に(考えるという回路を避け)、指はスマー トフォンを、ゲーム機をさわり、その微かな触感と、送り届けられる微細な視聴 覚的変化に心を研ぎ澄ます毎日。「存在への不安」(メディアへの埋没)と「意味 に対する背走」( 社会への埋没)というカップリングから、無時間・無空間的世 界において、反射的行動を繰り返す――ここに誕生した「 新しい人間」は、ま るで「認識すること自体を放棄した」かのように見えます。 かつて「情報化社会」は、「情報量が拡大する社会」と言い換えられていました。 この文脈において「情報」は、あくまで僕たちが「知りうる対象」としてイメー ジされていました。つまりそれは、仮にそれがメディア上に溢れるようになった としても、検索サービスを使えば常に「 可能的」に手にすることができるもの であり、したがってそれを利用「 できる/できない」は、個人のリテラシーに 還元されるものとみなされるようになりました――これは、例の「自己責任論」 と同じ構造です。 この「 先取り感」( 一種の全能感)こそが、遠近感の喪失の表れであり、今日 の時空間認識の乱れそのものとは言えないでしょうか。何でも知っている( 知 り得る)かのような傲慢さと、自らをまとい、守るものを何も持っていないかの ような臆病な振る舞いの同居。そうした人々の姿は、この「 社会」が機能不全
  • 16. 15ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 に陥っている証であり、それはまさに拡大した「 情報量」に対する、認識シス テムの相対的敗北であると僕には映るのです。 なんだかすごく大仰な話を聞かされていると思われるかもしれませんが( 繰 り返しますが)、これが本論の主題です。「 社会」が「 記憶システム」であると いうことは、その「 記憶」こそが、実は僕たちの身を守る「 衣服」であったの です。たとえ話的に言うならば、それはテレビ・システムからの衣替えの季節を、 僕たちはきちんと整理整頓しながら、越えることができるのか( これまで、そ うしてきたか)という問いになるでしょう。 テレビとともに作り出された時空間の代わりに、どのような時空間認識がデザ インできるのか。そこにおいて「 記憶」と「 記録」の関係は、どのように定義 されるのか。そしてかつてテレビにとって「戦争」が特別な対象であったように、 僕たちの生存を脅かすようなカタストロフィーをどのように位置づけるのか―― ポスト・テレビ時代が、絶望と社会的「 記憶喪失」の時代にならないようにし たい――ここから少しずつお話ししていくことは、そうした新たな歴史記述に関 わる試みの一部です。ちなみに僕はそれを「 アーカイブ実践」と呼んでいるの です。 3-1 2005 年 8 月の『戦争』関連番組という「映像群」との出会い 「 2005年8月に放送される『 戦争』に関する番組を、一通り録画してみよう」 ――最初にそれを思いついたときには、本論でここまで述べてきたような構想は 当然ありませんでした。むしろ恥ずかしながら、「 デジタル機器による大量録画 ができるようになったのだから、やってみよう」というぐらいの技術的好奇心に 促された軽い気持ちで、その対象を探したような側面の方が強かったように思い ます。この年の8月1日から31日までの1ヶ月間に録画した番組は、地上波と衛星 放送( ハイビジョン除く)を合わせて計110番組に上りました。そのうち不完全 な録画や、重複( 期間内再放送)などを除くと78番組。これが、僕の手元に構 築された最初の「私的アーカイブ」ということになります。 とはいうもののこの時の僕には、「 アーカイブを作る」という意識はあまりあ 3.「私的」にアーカイブを構築することについて
  • 17. 16 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 りませんでした。分析の対象として、複数の番組を録画しようとしていただけで、 「 番組」が群として存在することにこれといった「 意味」を感じてはいなかっ たのです。もちろん、「 アーカイブ」という言葉は知っていましたし、2003年か ら「 NHKアーカイブス」の事業が本格的に開始されていましたから、それも頭 にはありました。しかし、アーカイブといえば大規模な公共設備の事業イメージ がありましたし、一方でPC用語にも「 アーカイブ」はありましたが、概念的に それらを結び付けようという考えもありませんでした。 ですから僕の「 アーカイブ論」は、定義づけや理論的考察よりも、ある意味、 体験に先導された感が強かったといえるでしょう。それはまず「 情報が群れと なって、押し寄せてくる」感覚として表れました。それに気がついたのは、録画 した78番組のリストを作成している最中だったと思います。録画は、対象とし た各局をまんべんなく行ったのに、( 当たり前のことではありますが)それは決 して均等ではなく、「波」あるいは「塊」として「記録」されていったのです。 「 NHK」はその中で、最も大きな「 塊」を成していたと言えます。なにしろ録 画番組中の約7割( 54本)を占めていたのですから、この年8月のNHKの番組編 成は、いかに『 戦争』を中心に組み立てられていたかがわかります。うち33番 組が地上波。当時、衛星放送は三波ありましたが、それはあくまで地上波の補完 的な位置づけで、中心はあくまで総合・教育( 現・Eテレ)にありました。NHK =公共放送という存在そのものに、いかに「 戦争」が刻みつけられてきたかに ついては( 簡単ではありますが)既に述べた通りですが、そのことはこの国の 公共性( Publicness)の概念が、この「 記憶」を想起することと深く結びついて いることを表しています※6 。 その中心に「 塊」としてあるのが「 NHKスペシャル」です。NHKの番組制作 史のメインストリームとして扱われるこの番組枠は、今日でこそ多様なテーマ、 ジャンルに開かれてはいますが、そもそもは『 日本の素顔』『 現代の映像』に始 まるテレビ・ドキュメンタリーの系譜を正統に継承する流れに位置づけられます。 特筆すべきは、通常は日曜21時を中心に( シリーズ企画などは他の曜日にも) 放送されてきたこの番組が、2005年の8月は、6日から14日まで連続9日間「 戦 争」を題材にした異なるテーマの番組を放送し続けたという事実です。これだけ 連続して、しかも異なる形式・主題の番組を「 スペシャル」の名の下に放送し 続けたということは、極めて異例であることは言うまでもないでしょう。  
  • 18. 17ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 6日:被爆60年企画   被爆者命の記録 ∼放射線と闘う人々の60年∼(21:00-22:15) 7日:終戦60年企画   ZONE・核と人間(21:00-23:15) 8日:終戦60年企画   追跡 核の闇市場 ∼放置された巨大ネットワーク(21:00-21:58) 9日:被爆60年企画   赤い背中 ∼原爆を背負い続けた60年∼(21:00-21:53) 10日:終戦60年企画   コソボ・隣人たちの戦争 憎しみの通り の6年(21:00-21:58) 11日:終戦60年企画   そして日本は焦土となった ∼都市爆撃の真実∼(21:00-21:58) 12日:終戦60年関連企画 ドラマ「象列車がやってきた」(19:30-20:45) 13日:終戦60年企画   靖国神社 ∼占領下の知られざる攻防∼(21:00-22:13) 14日:終戦60年企画   戦後60年 靖国問題を考える(21:00-22:45) 15日:日本のこれから  戦後60年 じっくり話そう アジアの中の日本            (第1部:17:10-18:20、第2部:19:30-21:30、第3部:22:30-24:00) これらの番組群には、いずれも「終戦」あるいは「被爆」60年企画という冠が つけられていることから、「 一連のもの」として視聴されることを想定して、ラ インナップが組まれたことがわかります。また「 NHKスペシャル」の枠ではあ りませんが、7日から9日の3夜連続で「平和アーカイブス」と題して、「NHKアー カイブス」の特番が放送され、この枠以外にも幾つかの再放送番組も含めて、戦 争に関する過去の映像と向き合い、知識を更新する機会が時系列で積み重ねられ ていく編成になっています。 <平和アーカイブス> 7日:語り伝えるヒロシマ・ナガサキ 第一夜 原爆投下・その時何が(23:25-24:45) 8日:語り伝えるヒロシマ・ナガサキ 第二夜 被爆者たちの60年(23:00-24:00) 9日:語り伝えるヒロシマ・ナガサキ 第三夜 伝えたし、されど(24:15-25:35) ★「平和アーカイブス」以降、「環境アーカイブス」(2006)、「にっぽんくらしの記憶」(2007) とこのアーカイブス特別企画は続くが、「ともに、いきる」(2008)以降「教育アーカ イブス∼学び、伝え、はぐくむ」(2009)「女性のためのアーカイブ」(2010)と次第にトー ンダウンし、NHK スペシャルとの番組連動も少なくなる。 そしてこの一連の番組郡のピーク=「 波」は、15日の特別番組「 日本のこれ から 戦後60年 じっくり話そう アジアの中の日本( 第1部:17:10-18:20、第
  • 19. 18 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 2部:19:30-21:30、第3部:22:30-24:00)」に持ってくるように、デザインされて いることに気づかされます。つまり「 戦争」をテーマにしつつも、各番組の眼 差しは「 当時の( 被爆に代表されるような)ナショナルなアジェンダ」に囚わ れないように現代の「 核」問題や「 国際紛争」、あるいは国内では地方の都市爆 撃に焦点を当てるなど、さまざまな論点に目が行くように編成に心を配り、それ が「 討議」に集約されていくように、大きな流れが「 設計」されているのです。 この、まるでハーバーマス的「 議論する公衆」を意識したような、押し寄せ てくる番組群のうねりには、一種の公共放送NHKの正統的な自意識の表れを見て とることができます。しかし、ここまで「 あからさま」にその「 目論見」が表 れた年は、後にも先にもありません。その意味でも2005年という年は特別であっ たと言うことができます。 ところで2005年8月の1ヶ月を通じてコンスタントに「 戦争」関連番組が放送 され続けたといえども、さすがにこの年も終戦記念日というピークを超えると数 は減り始めます。そしてそれとともに、テーマも変化します。それは「 日本人 の体験」を超えて、「 戦争」一般を問うシリーズに広がり、さらに「 戦後60年・ 歴史を変えた戦場」( 衛星第一)、「 アウシュビッツの真実」( 総合)といった番組 へ――すなわち「 8月15日以後」は、かなり意識的に、「 戦争」と「 現代社会」 の関係を問いかけるべく視野を広げようとしたのだと思います。 一方、民間放送もこの年は相当「 力」を入れました。例年、8月の被爆・終戦 企画にはドラマが多いのですが、大型特番だけでなく通常枠を使いながらドキュ メンタリーをシリーズ化し、あるいは娯楽番組の中に「戦後」「昭和」などのキー ワードを入れ込むなど、かなり丁寧な編成の跡を見ることができます。さらに民 放ならではのタレントを活用した情報番組的構成も、ヘビーな題材に対する視聴 者のハードルを下げる効果を発揮し、NHKの番組編成を補完する絶妙な役割を果 たした感があります。 こうして僕は、この年の「 戦争関連番組」78本のリストを作成し、その全体像 に向き合う経験を通じて、もはやそれが単に個別コンテンツの集積に止まるもの ではないことを知るに至りました。すなわちそれは、全体が一つの「 群」とし て表れ、特有の時間・空間軸との参照関係の中で、見る者に「波」あるいは「塊」 としてそのコンテクストを突き付けてくる、小さいながら「 意味を持った」集 合体として認識されたのです。 そもそもアーカイブとは何か。それは「 データベース」や「 ライブラリー」
  • 20. 19ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 といった類似概念と何が異なるのか――それまでも何度か、こうした議論に参加 したことはありました。そんな中で今も僕のベースを成しているのは、ミッシェ ル・フーコーを引いた「 ひとつの時代、ひとつの社会、ひとつの文化において、 <言われること>・<書かれること>の存在論的なステータスを具体的に統御し ているシステムのこと」( 小林康夫他編『 フーコー・ガイドブック』ちくま学芸 文庫、2006年、p.63)という定義です。それに従えば、アーカイブとは決して 普遍的なものではなく、特定の社会・文化との関係の中に置かれる( システム を成立させる)「秩序を備えたもの」ということになります。この2005年8月の録 画体験は、ある意味、この定義に具体的な実感を与えるものだったと言えます※7 。 3-2 情報秩序=出会い方を制御する/テレビとインターネット しかしこれまで述べてきたような「 秩序・統御」感は、この「 戦争番組群」 の場合、「 アーカイブ」として形成されたものというよりもむしろ「 テレビジョ ン」というシステムに備わっていたものであり、そこからある「 塊」を抜き出 したことによって顕在化したもの、ということもできます。果たしてこれらの 「 群」の意味は、そこに止まるものなのか、それとも「 アーカイブ化する」と いう行為によって、新しい「 何か」が加わる可能性があるのか――僕の興味は、 次第にそこに移っていきました。つまりアーカイブの秩序は、この場合2005年 8月のタイムテーブル( 時空間編成)を外したところに本来見えてくるもの―― 「 アーカイブ的」な人々との出会い方( メディア・コンタクト)とは何か、を 考えることに向かっていったのです。 手がかりは「 デジタル化」の中にありました。例えばインターネットを介し た情報サービスに目を移してみましょう。その「 情報」との出会いは、どのよ うにかたち作られているでしょうか。最近は、スマートフォンやタブレットPC をメイン端末としたアプリケーション・ベースのプラットフォームが若い人たち を中心に広まっていますが、ちょっと前まで( Windows95以来のこの十数年) は「検索」がその「出会い」を集約するスタートページの役割を担ってきました。 そのいわゆる「 ポータル・サイト」といわれてきたものが、どのような機能を もっていたのか――それは一度整理をしておいた方がいいかもしれません。なぜ ならばそこに、「 データベース」と「 アーカイブ」を分節する要素が散りばめら れている、と考えることができるからです。
  • 21. 20 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 1996年から2001年の春まで、ポータル・サイトの運営に携わっていたことも あって(当時は、あまり学問的な裏付けもなく、ですが)、人々がいかにして「知 識」と出会うかについて、経験則も含め、幾つか可能なパターンを考え、それを サービスとして実装するといったことを仕事にしていました。その時に気づいた ことは、「 人は、自分が既に知っていることとの関係において、新しい知識と出 会う」ということです。この「 既知」とは何かが結構厄介で、そこには様々な レベルがある――「 ポータル・サイト」の設計のキモは、要はそれをどう定め るかにあったわけです。 「 検索」サービスが最も日常的に用いる機能は、キーワードによる探索ですが、 実はインターネット初期、これを使いこなせる人は意外に多くありませんでし た。それは「そもそもどんな言葉を選んだらいいか」を考えることに、高いハー ドルがあったからです。キーワードが具体的に思い浮かぶということは、もう既 にその段階で、求める情報とそのキーワードとの関連性が、相当レベルでイメー ジできていることを示しています。従ってよく言われる「検索」の精度の実態は、 事前に形成されるイメージと検索結果とのマッチングの程度である、と言うこと ができます。 しかし(既に述べたように)ここには様々なレベルがあります。例えば「ポー タル・サイト」の「 キーワード検索」に並ぶ主機能に「 ディレクトリ」があり ます。これは、内包に対する外延というか、探索対象を言葉同士の関係に求める のではなく、カテゴリーという次元の違う意味集合から階層的に絞り込んでいく アプローチです。「ディレクトリ」はものごとを概念化、あるいは「分類」「整理」 して捉える発想を持つ人に適合する出会い方で、常に対象を集合の要素としてイ メージする習慣がある人に適しています。未知な対象についても、既知のカテゴ リーのリストと対照させることによって範列的に理解し、その理解によってカテ ゴリーを豊かにしていく作業を通じて、認識世界を広げていく人、と言ってもい いかもしれませんが、これは全ての人、全ての対象に当てはまるものではありま せん※8 。 初期( 1990年代)のインターネットへのゲートウエイは、「 キーワード検索 ( サーチ)」と「 ディレクトリ」の2つの機能で十分と思われていました。しか しそれはある意味、積極的に情報に向き合う人に限られていました。それが徐々 にメディアとしてのすそ野が広がるに従って、いわゆるマス・メディア的機能が ネットに求められるようになり、その結果、2000年代のポータルには「 コミュ
  • 22. 21ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 ニティ」「 コンテンツ」「 ニュース」サービスの充実が求められるようになったの です。 ポータル・サイトは当時、テレビとは異なる意味で「 パブリックな情報サー ビス」を目指していました。「 異なる」というよりも、アプローチは「 真逆」で あったといえるかもしれません。テレビは、同時的中央集権的( =同心円的) な情報の流れを作ることで、ナショナルな認識共同体を作ることに成功しました。 しかしそれがうまくいったのは、戦後のこの国の社会的なモードが、そのシステ ムと相補的な関係が築けたからです。しかしポスト・バブル期と、情報の流れの 多様化は、テレビが自らのシステムを成立させるために犠牲にしてきた「 それ 以外の情報接触のあり方」の可能性を開く場を求めました――その期待が生み出 したのが「ポータル・サイト」だったと言えます。 先ほどのアーカイブの概念に従って振り返るならば、「 ポータル・サイト」の システムは特定の統御の仕方を内包するものではなく、様々な「 出会い」に開 かれることを志向していました。今では、「 ポータル・サイト」も一定の役割を 終え、「 ソーシャル・メディア」なるものが、新たな期待の受け皿になっていま す。「 ポータル・サイト」が、その理想を実現させることができたか否かを評価 することは簡単ではありませんが、「情報との出会い方」に注目するならば、「テ レビ」→「ポータル」→「ソーシャル」という展開は、再び特定の統御の仕方に、 パブリックなメディアの原理を委ねる流れに戻ってきているように映ります。具 体的に言うならば、同時的中央集権的から多時間的島宇宙的秩序(コミュニティ 的秩序)へ、と言ったらいいでしょうか。 秩序を内包するという意味で「テレビ」も「ソーシャル・メディア」も、「アー カイブ的」であると言えます――とりわけその「 コンテンツの集積」という側 面に光を当てるならば( 一方、この論点に照らすならば、「 ポータル」は「 デー タベース的」であったといえましょう)。しかしそれでも「テレビ」も「ソーシャ ル・メディア」も厳密な意味で「 アーカイブ」であるとは言えないのは、時間 と空間の参照関係において、それはむしろ秩序本質が「 ネットワーク」性にあ るからでしょう※9 。 仮説的に定義するならば、「 ネットワーク」は時間を統御することによって利 用者の空間認識を作り出すのに対し、「 アーカイブ」は逆に空間を統御すること によって時間に対する認識を促す、システム概念であると言えましょう。さら に言えばこの定義が、「 アーカイブ」と「 ライブラリー」の間に一線を引くヒ
  • 23. 22 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 ントを与えてくれます。「 ライブラリー」は、その空間秩序自体の再生産装置で あるといえます。ポータルのディレクトリが実体化したものとしての「 ライブ ラリー」は、「 分類」という知的営みそのものに奉仕する機能に特化していま す。その点で、具体的な生きられる世界と僕たちの認識との関係で考えるならば、 「 ライブラリー」は「 データベース」に近いポジションに置くことができるで しょう。 3-3 過去と現在、そして未来が出会う――アーカイブの秩序原理 少し寄り道をしながら面倒な思考実験をしてみたのは、2005年8月の戦争関連 番組の録画とその整理作業をしながら僕が初めて感じた「 アーカイブ体験」と は何かを、はっきりさせたかったからです。 アーカイブが秩序性を内包すること、空間の統御が時間に対する認識を促すこ と――テレビの独特の編成から「 切り取って」アーカイブを作るということは、 すなわちその固有の秩序性を逆転させることに他なりません。テレビが「戦争」 を題材にして、同時的映像体験から創造を促す空間認識は、「 ナショナル」とい うフレームであるといえるでしょう。それが、戦後のこの国に誕生したメディア の「 パブリック」の次元における使命であり、だからこそこのテーマには、特 権的ポジションが与えられ続けてきたのです。 それを「 アーカイブ化」するということは、そこに別の秩序を与えることを 意味します――実はこのアプローチは、僕が始めたとか、偉そうに言えるもの ではなく、先行する取り組みがあったからこそ気づいたのですが――桜井均の 『テレビは戦争をどう描いてきたか』(岩波書店、2005年)が、まさにそうでした。 NHKのプロデューサーであった桜井は、実務を介して個人的に保管していた映像 データを素材に( 公式のNHKアーカイブスのプロジェクトとは全く別に)「 私的 アーカイブ」の構築を既に行っていました。この本は、まさにその「 テレビ」 の「アーカイブ化」の記録だったのです。 桜井がその作業を通じて発見した「 秩序」は、「 戦争を語ること」の時間的変 遷でした。「 モノローグからポリローグ、そしてさらなる閉塞へ」という流れは、 まさにその時々刻々移り変わる社会的コミュンケーションのかたちと、NHKの制 作者たちの意識( あるいは無意識)の構造的カップリングの様相を明らかにし たもので、この「 戦争」表象の集積体は、まさしくテレビが「 介入」し続けて
  • 24. 23ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 きた戦後の「歴史化の鳥瞰図」であったと言えます。 僕は翌年、光栄にもこの本のレビューを書かせていただく機会をいただきまし た。そこでうっかり筆が滑った僕は、こんな批判的な一文を書いてしまうのです ――「 この作業はもちろん、桜井自身が、ドキュメンタリー制作者であるが故 に成し遂げられたものである――しかし、一方で我々は、この作品が抱え込んだ もう一つの『閉鎖性』に気づかずにはいられない。すなわち、この作品自体が『制 作者の自意識』を辿る遍路(モノローグ)なのである」(『東京大学大学院情報学 環紀要 情報学研究』No.70、2007年)。つまりこの桜井の仕事は、テレビ制作者 の空間を設定したからこそできたものだと。 これは決して否定的な意味ではなく、むしろそのことによって僕は「 アーカ イブ性」とは何かという問いに答える一歩が踏み出せました――実際その後の多 くの「 思考実験」の背後には、これをきっかけに開かれた、桜井との対話的実 践があったということを、触れておかずにはいられません。 すなわち「 テレビ番組のアーカイブ化」とは、制作者−視聴者( 送り手−受 け手)の分断によって形成された空間秩序を乗り越えることと僕たちは考えまし た。桜井はその映像を素材ごとに細かく見つめ、そこに写されている対象を拾い 出し再編集することを通じて、すなわち映像制作そのものを「アーカイブ実践」 として、制作者空間の無意識の中にある「 時代」をあぶり出す方法を提示しま しました。一方、僕はテレビ番組を見る者が、それを通じてどのような時間体験 をするのか、を分析するアプローチを選択しました。 テレビを見る者は、常に「 現在」の位置にいます。しかしその者がテレビの モニターを介して出会う映像は、必ずしも「 現在」のものとは言えません。す なわちその地点は、「 いま」と多様な時間( 特に「 過去」)が遭遇するインター フェイスであると言えます。その観点から、2005年8月の「 戦争番組群」の時間 表現を分析していきました。するとそこには4つのパターンが浮かび上がってき たのです。それはドキュメンタリーだけでなく、ドラマや情報番組を含むジャン ルの枠を越えて表れていました。 Ⅰ <再現> 現在を消し、超越的な位置から、過去を再構成する。 Ⅱ <検証> 現在の位置から、過去の経緯、妥当性、因果性を問い、評価する。 Ⅲ <想起> 個人の記憶のレベルで思い出し、語る。記録映像は妥当性の保証。 Ⅳ <参照> 常に主題は現在を定位する。記録映像はその「現在」に意味を付与する。
  • 25. 24 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 <再現><検証><想起>は、「 過去」を作り出す行為です。ただし、<再現 >は過去によって過去を作り出すのに対し、<検証><想起>は、その立ち位置 は現在にあります。一方<参照>は逆に、過去によって<現在>の意味を保証す る作業であり、<検証>の対極にあります。<想起>は常に個人の立場で行わ れるのに対して、他の3つは、その個人の立ち位置を超越する、あるいは客観的、 集団的認識の地平を作り出します。 <再現>は主にドラマの形式を要求します。手元にない「 過去」の資料を、 想像=創造の力を借りて、イメージとして作り出すのです。すなわち単に過去の 位置にとどまっているのではなく、見る者の個人的な印象の力を借りている―― その意味では、<想起>の対極にあるといえるかもしれません。一方<検証>に は資料映像、<想起>は個人の声( 証言や語り)が主に用いられます。それに 対し<参照>は現在のルポ映像が前景化し、資料や証言が後景でそれを支える関 係で組み合せられます。 番組はこのように多様な方法で、あるいは時に特定「 過去」と「 現在」の映 像と見る者のイメージを結びつけ、そこに「 印象」を生み出します。それが< 再現> ‐ <想起>の軸を中心に構成されればそれはドラマになり、<検証> ‐ <参照>の軸を中心に構成されればドキュメンタリーとなります。昨今の、「 戦 争」をテーマにドキュメンタリーとドラマの形式を併せもったドキュ・ドラマの 手法が多く用いられるといった現象も、それが「 過去」の映像や「 証言」が乏 しくなった現実の鏡である一方で、客観化の困難を<個人>の想像の強さで補お うという制作者の意識/無意識がそこに働いている、ということから説明可能に なります。 また、一つの番組内に上記の多様な要素が織り込まれればそれは、バラエティ 的になります。情報番組の場合には、それを構成するバラバラのシークエンスは、 MCの語りでつながれていくことになりますが、現在のこれらの番組の多くには、 客観化されたナレーションではなく、MCのパーソナリティが前景化した「 個人 の声」が用いられています。これは<想起>が、様々なモードを束ねるというか たちで、一段上の(メタな)機能を果たしているということを示しています。 このように「 過去」を「 現在」に描く番組の中で、<想起>や<再現>が強 化されているということは、「 記憶」の活性化があくまで個人のベースに止まり、 社会化しにくい現状を表しているといえます。 一方、2005年8月の「戦争番組群」の中で大きな「波」を形成していた「NHK
  • 26. 25ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 スペシャル」の基本形式は、( 12日のドラマ『 象列車がやってきた』は除く)< 検証>と<参照>を基本パターンとしたドキュメンタリーにあります。しかしそ の中にも、個人のレベルにおける「 印象操作」ともいえる技法が多用されてい ました。それはスチール( 静止画像)や主題に直結するショット、効果音の反 復的使用です。これらは「 印象」の「 象徴化」を促し、記念碑的な像を、見る 者の心の中に刻みこみます。 本来、記憶の社会化を促すべきこれらのジャンル表現の中で、こうした手法が 多用されるということ、すなわちイメージの反復の力を借りて象徴化が促進され るということは、それ自身が「 シンボル」として機能しづらくなっていること のメタ次元での表現であり、むしろそれは象徴の負の側面である具体的な現実、 リアル世界との関係の疎遠さを強く表してしまう危険性を示しています。 フロイトはこうした機能に「隠蔽記憶」(リアルな経験の想起に蓋をする:『フ ロイト著作集6』)と名づけました。このショットあるいは効果音が、「 沈黙を作 り出す」ことに働きかけていること自体がまさに「象徴的」であるといえましょ う。例えば、昨今の社会を覆う「 右傾化」の意識を、この「 象徴化」の負の部 分が過剰となった結果と捉えるのは、行きすぎた解釈でしょうか。 3-4 ネットワーク化する番組 こうした番組を介した「 過去」と「 現在」の出会いのパターンは、決して単 体の番組に閉じているわけではありません。むしろそこにこそ「アーカイブ化」 の意味が表れてくる――例えば、<想起><検証><参照>に表れる、「 過去」 と「 現在」の往還は、「 見る」という行為が常に現在に縛り付けられているとい う避けがたい現実によって、番組の殻を破って、複数の映像や声を結びつけます。 「アーカイブ」的視聴、すなわち番組に「群(むれ)」として出会うということは、 テレビが与えたリアルな時空間秩序を超えて、これらのパターンを顕勢化、意識 化する機会を与えてくれるのです。 2005年8月の番組編成についても、制作者たちはこうした番組を超えた関係 性を意識していたことは容易に想定できます。そして一種の「 集合体」として、 これら番組群と向き合うとき、そこには明らかに他の番組との関係自体を主題化 した、さらに言えば、他の番組の要素を折りたたみその中にインデックスとして 取り込んだような特別な番組の存在が浮かび上がってきます。桜井はこうした番
  • 27. 26 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 組のことを、「 ハブ番組」と呼びました。そこを基点に、様々な番組との間に関 係の糸が結ばれていく、それ自身が「アーカイブ」的でありかつ、「アーカイブ」 に探索に入る入口の役割を担う番組です※10 。 僕はこの年の番組群の中に、それを2つ見つけました。一つは、NHKスペシャ ル『 終戦60年企画 ZONE・核と人間』( 7日21:00-23:15)。もう一つは、TBS放送 50周年記念 戦後60年特別企画『ヒロシマ』(5日18:55-21:48)です。 『 ZONE・核と人間』は、極めて高い象徴性を持った番組でした。ZONEとは放 射能に汚染され、立入禁止となった区域のこと。この番組は、かの戦争における 原爆投下以来、世界中に数えきれないほどに広がった「 ZONE」を訪ね、それを 結びつけていきます。すなわちこの番組では広島・長崎から現代へ、広島・長崎 から世界へという時空間の拡張そのものが企図されているのです。従ってそこに は外観が与えられていきます。その点で言えば、これははっきりと「 2005年的 現在」における「 核」に対する認識を統御する「 設計・デザイン」が意識的に 施された番組でした。 その特徴は、以下の様に整理することができます。 第一に、「 資料映像」は構成の主役を担っている点。この番組はインタビュー や現在の取材映像よりもはるかに大量の、過去の番組・作品からの引用によって 作られています。しかも特徴的なのは、それらを素材として結合する際に、音楽 の「 シンコペーション」、フランス語の「 リエゾン」のように連続性やリズム感 覚が意図的に乱される特殊な記述的連辞( C・メッツ)が用いられ、また「 イン サート」「 ファスト・カット」「 フラッシュバック」など、結合対象間の意味関係 を崩すトランジションも目立つことです※11 。この個々の映像が、番組の内外に 張り巡らされるリンクのノードであることを感じさせる仕掛けは、僕たちの視線 をわざと振り回し、常套句的な象徴性を「 追い払う」かのようです。それはこ の番組「 ZONE」の主題が、未規定のままこの「 戦後」史の中で放置され続けて きた「 核の意味」の空虚さを、確信犯的に「 告発」することにあると読むこと もできます。 もう一つは、番組の中における時間の経過に関する特徴です。リニアさは消去 され、むしろここでは、中盤の折り返し点を境に、前後半が対照を成すように組 み立てられています。この時間が空間にように構造づけられる方法によって、前 半「ZONEが生成されるプロセス」の各点が、後半の「ZONEの現在性(共時性)」 に対称的に/対照づけられるのです。その「 折り返し点」の役割を引き受ける
  • 28. 27ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 のは、沢山の爆発のきのこ雲。この典型的な「 戦争」の象徴映像が、逆にこの シンメトリカルな構造によって、現実世界に引き戻され、番組を見ることによっ て、記号のピラミッド(D・ブーニュー)の上昇/下降の「連続する記号過程」 の体験が促されるようにデザインされています※12 。 このきわめてコラージュ的かつ、幾何学的に配置された映像構成は、「 フクシ マ」を経験した2013年の現在に見直すとき、さらに新しい「 印象」を僕たちに 呼び覚まします。すなわち『ZONE』は、(2005年も、いまも同じく)現在進行形、 あるいはリニアな時の流れから逸脱した、もう一つのメタ時間の可能性を、僕ら に開いて見せているのだろうと思います。 『 ヒロシマ』は、同様に「 ハブ番組」と言いましたが、どちらかといえば「 作 品的」である『ZONE』とは全く異なる、きわめて「テレビ的」に作られた「番組」 であると言えます。筑紫哲也と綾瀬はるかという2人のナビゲーターが、テレビ スタジオに模した「 原爆ドーム」前の広場で様々な映像を繋ぎ進行していく大 型番組。TBSのオフィシャルサイトでは「 原爆開発や投下決定に関わった当事者、 被爆者の方々の貴重な新証言、膨大な数の史料を集めたドキュメント、さらに証 言から忠実に制作した再現映像やCGなどによって、60年目に初めて明らかにな る事実から人類最大の悲劇の『全体像』を描いていく」と紹介されています。 制作者たちはこの番組を「 ドキュメンタリー」と明言していますが、その形 式はまさにジャンルの混交の極みという意味でバラエティ的であり、かつ<再 現><検証><想起><参照>の4つのモードが複雑に入り乱れつつ、ナビゲー ターの語りの現在性(「 いま・ここ」)に回収されるという、まさに「 時間性」 そのものが、意識されないうちに主題化されていく「アーカイブ的」構成になっ ています。 しかし『 ZONE』では意図して「 散文的」に素材の結合が仕立てられたのに対 し、『 ヒロシマ』はナマの「 語り」による直線的な流れの幹に、各コーナーが枝 葉のように絡み付く構造になっており、その意味では一見「ふつう」のネオTV的 ( U・エーコ)な閉じた予定調和的番組ではあります。ところがそれは、最終場 面に仕掛けられた偶然性によって反転します。「 ハロルド・アグニュー( 原爆投 下機に搭乗していた)と、被爆者の当事者同士の対話」が、かみ合わず、決裂す る瞬間に、一気に(『 ZONE』とは異なった手法によって)それまでの番組が与 えてきた意味は宙に浮き、結論なき不安な状態に見る者は陥れられるのです※13 。 『 ZONE』の未規定性、『 ヒロシマ』の用意された大団円の決裂は、少し引いて
  • 29. 28 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 見るならば、意味の「 開かれ」に他ならず、時間的なパースペクティブでいう ならば、結論の先送り=未来の解釈者を招き入れる作りであると考えることもで きます。これらが「 ハブ番組」であることの意味は、それは「 過去」に対して だけでなく、「 現在」を介して「 未来」のアーカイブ実践( 再編集、視聴など) への可能性を担保していることにも、見ることができるでしょう。 その意味の「 開かれ」についてさらに掘り下げるならば、『 ヒロシマ』はか なりわかりやすく、また番組内外とのリンク関係についての可能性を示した、 チャレンジングなプロジェクトであったと言うことができます。まず冒頭20分 の、まるで映画の予告編を思わせるイントロダクション。この映像は、その大 半が本編のどこかで使われた映像であり、出現順や語りとの対応関係は、必ず しも本編の文脈に従ったものではないものの、あたかも3時間の番組の中に短縮 版と本編というコンテクストが異にする2つの「 ヒロシマ」が収められているか のように作られています。また再現シーンの多くが、実はBBCが制作した別番組 『 Hiroshima』からの( 共同制作関係を結んだ上での)利用であるという点にも 驚かされました。さらには別の目的で制作されたCGが、あたかもこの番組の意 図に従って用意されたものであるかのように任意に組み込まれるという特徴も見 られます。 こうした各素材に備わった関係性のノードとしての性質は、作品として非自律 的であることを隠さないことで『 ZONE』に近い役割を果たしているという点で、 「ハブ」的役割を果たしているとは言えるものの、それは「過去」と「現在」(あ るいは「 未来」)の軸よりも、共時的な関係に重心があるようにも見えます。特 に(2005年当時、この点についてははっきりとした言及はありませんでしたが) 同じ8月に同じ局で放送されたドラマ『 広島』( 29日21:00-23:24)とは、明らか にその対照を意識した配置がなされており、そこでは番組間の「ネットワーク」 性が意識されていたことは間違いないでしょう。 「 ハブ」番組の存在は、かつてのテレビ・システムにおける時空間編成を超え た、「秩序」の可能性を示唆してくれます。それは一方では「過去」と「現在」(あ るいは「 未来」)との関係を開き、他方では「 現在」において様々に並列しうる 表現を結びつけます。「 アーカイブ」と「 ネットワーク」――この段階で、デジ タル時代( ないしはポスト・テレビ時代)について何かを言うことは早過ぎか もしれませんが、少なくとも「 テレビ」ではないメディアによる公共性の実現 を考える足がかりを、2005年というこの年に見ることはできると思います。
  • 30. 29ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 3-5 2006年以降――そして徐々に「戦争」は消えていく 戦争関連番組は2005年以降も、数の上では及ばないにせよ( それ以前よりも はっきりと)意識して作られ続けます。もちろんそこには( 特にNHKにとって は)重要な制作環境上の背景事情があったのですが、それ以上に「 60年」を契 機に問題が明確に示され、それを継承していく流れができたということの意味は 大きかったといえます。 特に8月前半は、より明確な問いを「 編成」の核に据えるようになりました。 2005年の「 ピーク」に(『 靖国神社』などによって)提起された「 戦後処理」 の問題が、特に15日に向けて主題化されるようになったのです。 ● 2005 年 8 月放送 ▶ NHK スペシャル「靖国神社∼占領下の知られざる攻防」(13 日) ▶ NHK スペシャル「戦後 60 年∼靖国問題を考える」(14 日) ▶ 日本の、これから「アジアの中の日本∼戦後 60 年・互いの理解をどう深めるのか」  (15 日) ● 2006 年 8 月放送 ▶ NHK スペシャル「日中戦争∼なぜ戦争は拡大したのか」(13 日) ▶ NHK スペシャル「日中は歴史にどう向き合えばいいのか」(14 日) ▶ 日本の、これから「もう一度話そう、アジアの中の日本」(15 日) ● 2007 年 8 月放送 ▶ NHK スペシャル「A 級戦犯は何を語ったのか∼東京裁判・尋問調書より」(13 日) ▶ NHK スペシャル「パール判事は何を問いかけたのか∼東京裁判・知られざる攻防」  (14 日) ▶ 日本の、これから「考えてみませんか?憲法 9 条」(15 日) 「 靖国」「 日中関係」「 東京裁判」は、いずれもこの60年間議論し尽くされてこ なかった「 戦後」処理を代表する問題で、13日からの3日間、2005年から2007 年の間、ほぼ同じスタイルで( ドキュメンタリーから、15日の一般視聴者を交
  • 31. 30 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 えた討論番組につないでいく)特別編成が採用されたことは注目に値します。特 に13日のドキュメンタリーに用いられた「 知られざる攻防」という言葉は、そ の当時の対立項を明示するという意味で、<検証>的アプローチを宣言するもの であり、それを徐々に同時代的問題に軸足を移す<参照>のモードに移行させて いくという流れを作り出しました。それは、もはや一方向的なテレビ・システム の情報の流れを超えて、「 コミュニケーション・デザイン」的な試みであったと さえいえましょう。 また戦争体験者の高齢化に伴う切実な問題として提起された「 証言者がいな くなる」ことへの危機意識はさらに煽られていきます。それを受けて2007年に は、放送した戦争関連番組を一覧表示したWebサイト「 Sengo62」と「 証言記 録」を蓄積していくプロジェクトが進みました。こうした動きは2005年以前には、 10年刻みのメモリアル・イヤーにおいても全く見られなかったことです。その 意味で、「 60年」を機とした戦争関連番組の大量生産は、テレビ的なアプローチ からアーカイブ的なそれへと、「 戦争」を問うかたちの変化を促す契機になった と言えます。 こうして2005年を契機に生まれた「 過去」と「 現在」との出会いの芽は、し かし残念ながら、翌2008年を境にして徐々にトーンダウンしていきます。その きっかけは北京オリンピックにあります。4年に一度開かれるこの「 祭」は、夏 季のテレビ番組の編成を乱し、前後との連続性を途絶えさせます。実際3年間続 いた編成パターンは崩れ、「 戦争証言プロジェクト」などWebをベースとしたも のを除いて、縮小されていきます。しかし8月以外での戦争関連番組のオンエア が増えるなど、テレビと戦争のこれまでの定型的な向き合い方に変化を与える きっかけにもなったと言えます。 2008年の空白以降、「 証言の希少化」の危機はさらに切実なものになり、その 一方で「 新たな資料の発見」が「 過去」との出会いを開くケースの中心となっ ていきます。ところが当然ながら「 資料」だけで映像を埋めることの困難は大 きく、事実2009年8月9日から11日まで放送された NHKスペシャル『 日本海軍 400時間の証言』、10日の『 最後の赤紙配達人∼悲劇の 召集令状 64年目の真 実』( TBS)などは、ともに埋もれていた資料の発見を契機に作られ、事実の凄味 を認識させる良質な企画ではありましたが、<再現>ドラマに頼らなければなら ない苦しさを露わにしました。 2010年からは、直接の証言を得ることがさらに難しくなり、番組数の減少に
  • 32. 31ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 加え、戦争経験の次の世代にフォーカスを当てるか、あるいは「 記録」から< 検証>へ向かうプロセス自体を取り上げるといった比較的地味な印象が否めなく なりました。そして2011年――震災後の最初の夏は原発事故と、かの戦争にお ける被爆との関係を問う企画が中心となり、2012年のロンドンオリンピックで、 「夏=被爆・終戦の季節」といった印象は消えていきます。 この原稿を書いている2013年春現在、この先「 戦争」をテレビがどう描いて いくのかについて、断定的なことは何も言えません。しかし少なくともその対象 との距離は今後も開く一方であることは間違いなく、「 過去」にしっかり出会う ことができない僕たちが、具体性を欠いたイメージに頼って、何か誤った判断を してしまう危険性は一層高まるでしょう。その点において、2005年から数年に わたる、まさにテレビ・システムからアーカイブ的な視聴体験への移行が、その 後やや途切れ気味に見える現状は、大いに気になる事態です。 4-1 「戦争」的パースペクティブの死角 既に述べたように僕は、2005年8月に放送しされた戦争関連番組の録画による 「私的アーカイブ」構築作業を通じて、テレビ・システムが有する秩序とは、「同 時かつ一方向性」という時間の統制によってナショナルな空間を創造するもので あることを確認するに至りました。そしてその番組群の主題は分析を進めるに 従って、徹底的に国家・国民的パースペクティブ自身への問いを志向しているこ とを実感していったのです。 それは確かに戦後のテレビ的公共圏におけるアジェンダとしては、適合的で あったといえるかもしれません。しかし今、「テレビ」から「ソーシャル・メディ ア」へとメディアの重心がシフトしていく社会の中で( そして「 戦争」という 「 過去」が遠ざかる中で)、果たしてそれに縛られていることが必然であるかど うか、それ自体が問われるべき課題になりつつあるとも言えます。 この問い直しは、幾つかのステップに分かれます。まず、かつてのテレビ時代 における「 戦争」への問いに死角はなかったか。それは、被爆・終戦∼戦後処 理がナショナルなアジェンダとして特権的に扱われていた一方で、「 消えて行っ 4.「地域」という空間枠の設定――アーカイブ的秩序原理へ
  • 33. 32 「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践  ラ イ ブ ラ リー・リソース・ガイド 2013 年 春 号 た過去」はなかったのかという問いです。これこそまさに、本論の主題である 「 集団的( 社会的)に記憶を失う現象」に対する検証であり、テレビが作り出 した象徴が、隠蔽記憶として働いていなかったかを考えることでもあります。 「 アーカイブ」的な秩序原理がテレビとは反対に、空間の規定から時間認識の 創造へ向かうとするならば、ここで必要になるのが、「 ナショナル」に代わる空 間枠の再設定です。移行期の端緒( 2005年)において「 ハブ番組」が試みたそ の組み換えは、「 ナショナル→グローバル」という視角の拡大でした。『 ZONE』 はその典型であるといえますが、結果そこでできたことは、「 きのこ雲」という 象徴の異化、意味の宙吊りに止まるもの――残念ながら、僕たちはそれに新たな 意味を与えることができませんでした。それは『 ZONE』の表現と、それを受け 止める主体のリアリティとの間にずれがあったからではないかと思います。 「 グローバル」な死角は、ある意味「 ポータル」の無規定性を要求した時代に 対応するものだったと言えます。「 ナショナル」な視角のオルタナティブは、そ れとは逆の方向、すなわち記号のピラミッド( D・ブーニュー)で言うならばさ らなる象徴化を求めるのではなく、リアルな現実との関係性を構築するインデキ シカルなダイクシス(「あれ」「これ」といった指示詞が機能する空間)を想定す ることにあったと考えるべきだったのです。ちなみにこの転回は、「 ポータル」 から「ソーシャル・メディア」への志向の変化にも対応します。 ところがこの転回は、インターネットの普及に先んじるかたちで、「 テレビ」 「 新聞」といった既存のマス・メディアに対するオルタナティブを求める動き の中に、1990年代後半から表れていました。ケーブルテレビやコミュニティ FMをベースとした「 地域」とその担い手である「 市民」によるメディア実践 は、マス・メディアの肌理の粗さを補完する可能性を持ったものとして、研究者 たちの注目を集めていました。僕自身もそうした活動を、かつての「 放送」が 理想とする民主主義的公共圏の実現に向けたベクトル上にあるものとして見なし、 関心を寄せていました。当然そこでは「 誰が」「 どんな目的で」それを行うかは、 極めて重要な意味を持ちます。 その中で2005年に出会ったのが、鹿児島県鹿屋市を中心に大隅半島の自治体 を結ぶNPO法人によるラジオ局( おおすみFMネットワーク)設立の話でした。 地上波(AM)の中継局が廃止となり、電波が届かなくなることに危機意識をもっ た人々が、文字通り「 手作り」の放送局を作る――この取り組み自体がまさに オルタナティブな動きであり、僕はそれの応援団の一人として2006年の夏、訪
  • 34. 33ライブラリー・リソー ス ・ ガ イ ド 2 0 1 3 年 春 号  「記憶を失う」ことをめぐって アーカイブと地域を結びつける実践 問することになりました。鹿屋といえば、現在も海上自衛隊の航空基地があり、 かつては「 特攻隊出撃」の記憶と記録が残された町でもあります。偶然といえ ば偶然ですが、この土地で2つの関心が出会ったわけです。 鹿屋には、航空基地史料館というオフィシャルな「記録」の保管庫だけでなく、 多くの戦争の遺構が遍在していました。しかし「 そこに基地がある」にも関わ らず、「 よそ者」の僕には、その記憶の影は薄いように感じられました。資料館 に所属する「 語り部」の話を聴き、街あるきをする中でも、鹿屋の「 現在」の 風景と、ややステレオタイプ化された「特攻隊」や「地域空襲」、「占領軍上陸」 の物語との間には、どうも認識フレームのずれがあるように思われたのです。 そんなある日、ラジオ局を支える地元の女性たちの集まりがありました。そこ に招かれた僕は、不思議な経験をしました。その会は、そもそもはその仲間の 一人である地元の朗読サークル「 ポエム」の中西久美子の「 語り」を聴こうと いう目的の集まりだったのです。その日、中西が「 そら」で語ったものこそが、 僕がこの地で「 発掘」研究を行うに至ったきっかけとなった物語、竹之井敏作 『 冬の波』でした。昭和19年( 1944年)2月6日、おおすみ半島の入口である垂 水港と鹿児島市を結ぶ地域の大動脈「 垂水航路」で、「 第六垂水丸遭難事件」と 呼ばれる沈没事故が起こりました。それは海難審判所( 元・高等海難審判庁) の記録によれば、死者464名という一般船舶の事故としては史上二番目に数え られる大規模な事故でした( 高等海難審判庁『 海難審判制度100年史』1997年、 p.109)。物語は、その犠牲者にまつわるものだったのです。中西の話は、初め て聞いた僕の胸に深く沁みるものでした。 しかし驚いたことは、その「 地元地域」の物語を、そこに暮らす人のほとん どが知らなかったのです。物語というよりも、その事実そのものが、地域の人々 の「記憶」から消えてしまっていたのです。ちょうど2005年8月の戦争番組の「私 的アーカイブ化」を進めていた僕には、この物語と人々の反応が、奇妙なコント ラストに映りました。「 口承」という古典的な伝達方法、「 記憶」が失われると いう現実、昭和19年2月という時期、そして「 あくまで個人的に語られる<死> の理不尽さ」という物語内容自体も含め、ここで出会ったことがらはテレビやマ ス・メディアを通じて言わば刷り込まれてきた「 戦争の記憶」とは、激しく異 質なものに思えたのです。 この段階では、まだそれは「 研究的関心」というには程遠いおぼろげなもの に過ぎませんでした。しかしこれまで前提としていた、マス・メディアを支える