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2012 年 8 月 15 日
林 智彦
(t-hayashi@toki.waseda.jp)
1
2. 発表演題:メディア論から見た「電子書籍論」
:その困難と可能性について
発表者名:林 智彦(朝日新聞社)
【電子書籍「論」元年】
2010〜11 年にかけて、
「電子書籍」に関する議論が、わが国のさまざまなメディア
において、活発に交わされた。特に 2010 年は「電子書籍元年」という言葉が、一種
の流行語のようになった。業界関係者の間では、
「電子書籍元年」という言葉が含意す
る、ビジネス面での急速な発展はまだ実現していないという見方が大勢だが、他方で
「電子書籍」についての言説の急速な盛り上がり=「電子書籍『論』元年」について
は、すでに我々は経験した、と見る事ができるかもしれない。
このことを、いくつかのデータで裏書きしてみよう。日本国内でシェア 9 割を超え
る検索エンジン Google 上で、
利用者が入力したキーワードを集計する「Google Trends」
を使って、
「電子書籍」というキーワードによる検索数の変化を調べたのが下記の図1
である(検索日時:2012/04/26 12:20)
。
「電子書籍」への関心(Google Trends)
(図1)Google Trends
縦軸は調査対象期間の検索数の平均を1とした場合の指数を示す。これを見ると、
「電子書籍」への検索エンジン利用者の関心は、2010 年末がピークであったこと、
2
5. (2010)、歌田明宏 (2010)、酒井邦嘉 (2011)
また、国外の著作としては、以下の例を挙げることができる。
Eco& Carrière (2010) 、Shepard (2010) 。
さらに、刊行年はやや古いが、Sanders (1998)も、電子出版の文化にもたらす影響
について論じた書籍として参考になる。
これらの著作を検討すると、以下のようなことがわかる。
(1) 電子書籍の登場や普及に関して、その革新性、歴史的断絶性を強調する論者
(例えば、佐々木、前田、田代、立入ら)と、メディア・出版の長い歴史に
おける連続性を強調する論者(植村、村瀬、津野、萩野、Eco & Carrière ら)
とがいる。
(2) 総じて、研究や実務の面で電子書籍に長く関わってきた論者ほど、電子書籍
に関する現象を歴史的連続性の相において見る傾向が強いのに対し、新たに
参入してきた論者ほど、断絶性を強調する傾向が強い。
(3) また、電子書籍のもたらす変革を、技術的・ビジネス的な観点から不可避の
過程と見なす「運命論・決定論」的な議論と、当事者や利用者によるコント
ロールの可能性を強調する「主体性論」的な議論とがある。
(4) 前者の代表として前田、後者の代表的な例として岸が挙げられる。
(5) さらに主張内容とは別の次元で、電子書籍化への流れを肯定的にとらえる楽
観論者と否定的にとらえる悲観的な論者、そのどちらでもないものと考える
価値中立的な論者がいる。
どの著作も独自の文脈の中でそれぞれの議論を展開しているのであり、従ってこの
ような整理はどのようにまとめようとも、単純化のそしりを免れない。また一冊の書
物の全体にわたって、一つの立場に固執した本ばかりというわけでもない。だが全体
的な傾向を把握する上では、このような雑な分類も多尐なりとも役に立つだろう。
これを図にすると、以下のようになる。
5
7. る。
(A−2)は、「電子書籍は、コンテントの送り手と受け手が直接結びつくことを可能
にする(またそのことによって社会を変革する)
」という論議である。代表的な議論と
して佐々木 (2010)が挙げられる。
佐々木は同書で「電子書籍の時代になると……誰でも本を出版できるようになる」
「(電子書籍により)ソーシャルメディアを駆使して書き手が読者とダイレクトに接続
する」などと、この意味の「中抜き」を強調した議論を展開している。
次に(B)であるが、これは、
「電子書籍は(紙の)本ではない(別の何かである)
」
という主張である。この議論は(B−1)「コンテンツ・メディアとしての電子書籍は
本と別の何ものかである」という主張と、
(B−2)
「電子書籍の市場と本の市場は別で
ある」という主張に分類することができる。
さらに、(B−1)は、(B−1−A)「電子書籍は紙の本にはできない機能を備えたも
のである(べき。紙のレプリカではない)
」という議論と、
(B−1−B)
「電子書籍は紙
の書籍と基本的には同じ機能を持つ(レプリカである)が、目的・用途・利用者の経
験は異なる」とする主張に分けられる。
他方、市場に着目した(B−2)の議論も、子細に検討すると、下記の図5のように
さまざまなバリエーションがあることがわかる。電子書籍を含む書籍の「市場」をど
うとらえるか(従来の出版市場の拡大ととらえるか、新しい市場へ紙の書籍が飲み込
まれる、ととらえるか)
、その「市場」の「担い手」をどうとらえるかによって、結論
は変わってくるということが含意されている。
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8. (図5) 「電子書籍市場と紙の本の市場は異なる」という主張の分類
次に(C)の「プラットフォーム=垂直統合」仮説について述べたい。アメリカ
コンテンツビジネスのあり方を刷新した Apple や Amazon は、コンテンツの制作・
加工、配信・課金プラットフォーム、サーバーや通信などのインフラ、そしてデバイ
スという複数のレイヤーをたばねたサービス提供をしている、と言われる。いわゆる
「垂直統合」論である。
これに対して旧来のコンテンツ産業は、各レイヤーを複数の企業が担っている。こ
の構造の違いを肯定的に評価する(岸)か、否定的に評価する(佐々木)かの違いは
あるが、産業構造がある種の変革の圧力にさらされていることに焦点を当てるのが、
この議論である。
複数のプラットフォームを統合した企業体に対して、旧来のコンテンツ産業側が代
替的なプラットフォーム構築に失敗すれば、旧勢力は競争に敗れ、プラットフォーマ
ー(プラットフォーム運営者)による支配を受け入れざるを得なくなる。さらに著者
と市場が、プラットフォームを通じて直接つながるようなことがあれば、仲介業者と
8
9. しての出版社の役割は縮小せざるを得ない。これが(A−1)で述べた「経済的・ビジ
ネス的な意味の『中抜き』である。
最後に(D)について。この論点は、
「電子書籍は文化を破壊する」というものだが、
細かく分けると、二つの変種がある。(D−1)ナショナリズム的な意味の「文化破壊
論」
。それと(D−2)文明論的な意味の「文化破壊論」である。
前者は前項(C)とも関連づけながら、海外、特に米国の電子出版のビジネスモデ
ルが日本市場に持ち込まれる結果、日本の出版文化が破壊されると論ずるもの。代表
的な議論は岸博幸 (2011)である。
これに対し、ビジネスモデルと文化の衰退との関係を疑う声もある(大原ケイ
(2010))
。
他方、後者は、広く文明論的な、あるいは科学的な視点から「文化の破壊」を論じ
る。代表的な議論は、Sanders (1998)、酒井邦嘉 (2011)である。
こういう議論に対しては、さらに広い文脈からの批判がある。代表的な議論は、Eco
&Carrière (2010)において展開されている。
【これらの議論は「新しい」か?】
さてここまで紹介した議論を、出版研究やメディア論のこれまでの研究の蓄積の中
に位置づけると、どんな知見が得られるだろうか?
これにはさまざまなやり方が考えられる。その一つが、過去の「メディア受容論」
を参照する方法である。
どんなメディアも誕生したときは「ニューメディア」であり、その導入時にはさま
ざまな軋轢が生じると考えられる。
そのような軋轢によって生じる批判を、 (2011) 「ネオフォビア
橋本 は (neophobia)
」
と呼び、その歴史を、古代ギリシアにまで遡って検討している。
たとえば哲学者プラトンは、「文字」を批判した。文字を学ぶと、記憶力が減退し、
本当の知恵が培われなくなる、というのだ(橋本:97)
。
18 世紀から 19 世紀半ばにかけて活躍したドイツの哲学者ショーペンハウアーは
9
10. 「本(による読書)」を攻撃した。「読書とは他人にものを考えてもらうことである。
1 日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく」とい
うのだ。
これらの例に見られるように、
「ネオフォビア」は、新しいメディアが生まれるとき
にはつきものだという。橋本は、そのことを以下のように説明する。
「文字に始まり、インターネットに至るまで、あらゆる革新的メディアはそれが普及
する過程で猛烈な非難を受けてきたということは確実に言える。たとえば、電話も、
アメリカでは、その普及によって人々の直接的交流の機会が減ると懸念された。ワー
プロでさえ、漢字を忘れる、単なる切り貼りが増える、といった表面的な批判だけで
なく、生活に密着した具体的な語が使われることが尐なくなり、また内面的思考力が
衰えるといった指摘もあった。さらに、日本語文化において受け継がれてきた漢字の
書字行為と脳の活動が分断されることで『全身的思考力』が失われると述べた人もい
た」
(橋本:99)
メディア批判は「現在」や「近過去」のメディア状況を元に、
「現在進行形」や「将
来」のメディアテクノロジー、またそれのもたらす(と想定される)メディア環境を
論じる。電子書籍や、電子書籍のもたらすメディア環境を論じた電子書籍論も、この
例に漏れない。
だとすれば、そこには過去の議論との共通性が見いだされるはずであろう。
その意味で、ここで参考にしたいのが、1950 年〜80 年代に、始めラジオ、次にテ
レビの持つ社会的インパクトについて論じた「電子メディア論」の系譜である。
橋元によれば、過去に出現したメディアの中で最も数多く議論が交わされてきたの
がテレビだという(橋元:100)
。
日本では、ジャーナリスト大宅壮一による「一億総白痴化論」が有名だが、欧米で
は、メディア論という学問分野自体を作り出したマーシャル・マクルーハンの影響を
受けた流れと、マックス・ホルクハイマーとアドルノらのフランクフルト学派の流れ
とが、ラジオ、テレビなどの電子メディアの持つ可能性について活発な議論を戦わせ
てきた。この他、社会心理学やカルチュラル・スタディーズなど、さまざまなバック
10
12. スベルガー・ボードリヤール論争」を展開している(Mattelart (1998))
。
Mattelart などによると、この論争の論点は二つあった。一つは、技術決定論をめ
ぐる論点。電子コミュニケーションの技術は、伝達される内容やその効果を決定づけ
るものなのかどか。もう一つは、
「誰が」コントロールするかで、そうした内容や効果
は変えられるものなのかどうか、という点である。
エンツェンスベルガーは、テレビを主に念頭に置きながら、支配階級に握られたメ
ディアは支配階級の考えや価値観を人々に押し付けている、と見るが、他方でこの新
しいメディアには、「解放的可能性 emancipating potential」があり、被支配階級が
うまく利用すれば、社会をよりよい方向へ導ける可能性がある、と見る。
これに対してボードリヤールは、電子メディアのもたらすコミュニケーションは実
際には「ディスコミュニケーション」であり、そこにおいては本来の意味での前向き
な意見や情報の伝達などはありえない、と論じた。
ヨーロッパの知識人の電子メディアについての論調は、この二人に代表されるよう
な批判論と擁護論、悲観論と楽観論に別れていたが、電子メディア論を含む大衆文化
論のこうした対立を、ユニークな視点から早期に批判していたのがイタリアのウンベ
ルト・エーコである。
エーコは 1964 年に刊行した (Apocalittici e integrati)
「終末論者と取り込まれた者 」
という著書で、この対立は偽の対立であり、二つは同じ盾の両面でしかない、と論じ
た(Eco, U. & Lumley, R. (1994))
。
ここでいう「終末論者」は新しいメディアや文化の登場により文明は劣化しており、
明日にも人類が亡びる、というような主張を展開する論者であり、「取り込まれた者」
とは、新しいメディアや文化の創造に積極的に参加しているうちに、それに対する批
判の目を失ってしまった論者である。
エーコは次のように示唆する。終末論者もグーテンベルクの革命がなければ、自分
の意見を広めることはできなかったのに、新しいメディアだけを批判するのはおかし
いのではないか。木版本の発明によっても、活版本の発明によっても聖書の内容は変
化した。どれも発明以前と比べれば「劣化」していることは間違いないが、それは現
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13. 代社会の「条件」でもある。無人島にでも住まない限り、誰もこの「条件」からは逃
れられないのだ。
他方、
「取り込まれた者」は、前述したようにメディアの新しさに目を奪われ、分析
を放棄している。
エーコの立場は、単著ではないため、これまで言及していなかったが、電子書籍時
代に本はどうなるか、というテーマの書籍(「本は、これから」)を編んだ池澤夏樹に
近いものがある。池澤は、自分はワープロで書いた最初の芥川賞作家だったとして、
本はとっくに「電子化」しており、人々は知識の多くをネット経由で得るようになっ
た。電子書籍はそうした動きの「一つの段階でしかない」
。
ともあれ、エーコはこうした分析を踏まえた上で、文化の研究は次の二つに取り組
むべきだ、と論じる。第一に、起きている現象を分析的に記述すること、第二に、そ
れらを歴史の明かりに照らして解釈すること。ただしその際、いいものとわるいもの
を区別する明快な基準はないと見極めることが大事だとも指摘する。
さらにエーコは、知識人の役割は、機械化産業への対処法を考えるのと同じもので
ある必要がある、と述べる。人間は機械から自由になることはできないが、機械との
関係において自由になることはできる、と。すなわち、機械に使われるのではなく、
機械を使いこなすにはどうしたらよいか、というふうに問題を立てる、というわけだ。
こうしたスタンスを電子書籍に関連づけて考えると、次のようなことがいえる。
「ネ
オフォビア」に目を曇らされずに、歴史の中で電子書籍を考えること、その際、
「電子
書籍」という現象を受け身で捉えるのではなく、
「電子書籍」という現象をどのように
コントロールしたら、人々の生活がより豊かになるか、と問題を立てること。
電子書籍を過去のメディア受容史の中に位置づけると、電子書籍論は、上のような
視点から、
「次の段階」へと進む必要があるのではないか、と考えられる。
では「次の段階」とはどんなものになるのだろうか。それを次項で考えてみたい。
13
15. 者による視点から整理したものである(赤線は発表者による)
。
縦軸は「製品」を生み出す産業であるか、
「サービス」を生み出す産業であるか、と
いう軸である。それに対して横軸は、メッセージや情報の「コンテナ(入れ物)
」を作
る産業であるか、
「コンテント(中身)
」を作る産業であるか、という分類である。
楕円で色分けされた各種産業は、主に技術的な理由により、お互いにセグメント化
(棲み分け)されてきた。たとえば、印刷機械や物流ネットワークに膨大な設備投資
を必要とする新聞業界に、他産業から新規参入することは容易ではなかったし、出版
や映画、音楽産業についても似たようなことが言える。図の右下の「エンターテイン
メント・メディア・出版」産業領域は、従来このような厚い「壁」に守られてきたの
である。
しかし、デジタル技術の発展により、またネット(ウェブ)というコンテンツ流通
の新しい経路が生まれたことにより、この「壁」は現在、融解しつつある。その結果、
他産業からの参入が相次いでいる。テクノロジーの「融合」がメディアの「融合」を
もたらしていることの結果として現れている現象の一つが、電子書籍なのである。
メディア産業と他の産業の境目が曖昧(blur)になっているということは、独立し
た学問分野としての従来の出版学、メディア論等々がこれまで扱ってこなかった視点
が必要となる、ということでもある。
言い換えると、出版学・メディア論が、
「出版」や「メディア」を主語とした研究か
ら、広く「情報」や「コンテンツ」を扱うすべての産業を主語とした研究へと脱皮す
ることを迫られている、ということでもある。
必要とされる視点を、仮に5つのカテゴリーにまとめてみるとすると、以下の図の
ようになるのではないか。
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18. コンテンツとして売るのか、プラットフォームはどこか、取次を通じて販売するのか、
またはストアと直接契約して売るのか、などによって取引条件は異なり、価格も、キ
ャンペーンなどで変動させることが普通に実施されている。
これにより、編集者も販売の仕組みやカネの流れに注意を払うことが必要になる。
よいコンテンツだけを作っていればいい、というわけにはいかないのである。
電子書籍の普及は、単に本というメディアの物理的な成り立ちが紙から電子に置き
換わるということを意味するだけではなく、関連するアクターの役割の変革、別の見
方をすれば従来のアクターの担っていた領域の相互混交、それらを通じた産業全体の
変化をも要求する。
そのため、それを研究する側も、従来の枠組みから離れ、出版に関わるあらゆる領
域をまたがって現象を見ることが必要となると考えられる。
図8の5つの次元をバランスよくカバーした出版学・メディア論が必要とされるゆ
えんである。
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