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アドレナリンの発見と高峰譲吉
                                       山 嶋 哲 盛      (やましまてつもり)

                                 金沢大学大学院医学系研究科再生脳外科学
                                      電子メール:yamashima215@gmail.com




はじめに
 高峰譲吉博士のプロフィールを一言で紹介するに際し、我が国で
は『酵素化学と内分泌学の父』、外国では『Samurai Chemist』という表
現がなされている。なぜ、このような紹介がなされたのか、誠に興味深
いものがある。


 譲吉は、加賀藩前田家の典医であると同時に金澤醫学館の理化学
局教師であった父 精一(元稑:げんろく)と、高岡の造り酒屋の娘であ
った母 幸子(ゆきこ)の長男として、幕末の風雲急を告げる安政元年
(1854)11 月 3 日に産まれた。幼尐時代は、大小二刀を差して加賀藩の藩校である明倫堂で学び、
12 歳で長崎へ留学し、舎密(セイミ—シェミー—chemie—化学)に関心を持つようになり、東京帝国大
学工学部の前身である工部大学校の応用化学科に進んだ。その後、明治政府の官費留学生とし
てイギリスに留学し、グラスゴー大学とアンダーソニアン研究所において机上の学問ではなく、物を
作る実学の必要性と重要性とを学んで帰国した。


 高峰譲吉は、大正 11 年(1922)の 7 月 22 日に没するまでの 68 年の生涯に数々の偉業を私設
研究所や居宅、別荘において成し遂げているが、極め付きは、1)36 歳の時に行った元麹改良法、
2)40 歳時のタカ・ジアスターゼ(Takamine - Kohji - diastase)の精製、3)46 歳時のアドレナリンの結
晶化、および4)50 歳以降に行った日米親善事業であろう。それ以外にも、人造肥料(過リン酸石
灰)の普及、富山県におけるアルミ工業や水力発電の普及、理化学研究所創設の唱導、ニューヨ
ークの日本倶楽部の創設など、枚挙に暇がないほどである。日米にまたがるその足跡は余りにも多
岐にわたり、限られた紙面では到底書き尽くせないが、本稿ではアドレナリンの精製・結晶化に話
題を絞ってみたい。


ベンチャー起業家
 高峰譲吉のポリシーは「模倣的であることは、独創的であることの先駆に他ならない」と本人も述
べている通り、模倣の上に独創を重ねることであった。模倣とは、当時の先進国であったイギリスや
米国の技術ともの造りを真似ることであり、独創とは我が国古来の技術、すなわち醸造や発酵の技


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術を模倣の上に積み重ねることであった。乳鉢で薬剤を調合する父の姿と母の実家・鶴来屋で見
聞きした日本酒醸造は、米国でのウイスキー作りに生かされた。冷蔵運搬法のない明治時代には、
各地方においては、それぞれがお国自慢の種麹(コウジカビ、糸状菌、アスベルギルス菌)を用い
て地酒を作るしかなかった。譲吉の発想は、種麹は水分が多く腐敗しやすいので遠方には持ち運
びできない。そこで、含水率を低くし混入澱粉や夾雑物を除去することで、常温で長距離輸送して
も腐敗しない元麹を造り、これを米国に持参してロー・コストのウイスキーを作ろうというものであっ
た。


 米国流に麦芽(モルト、モヤシ)を用いる手法だと大麦の栽培に6ヶ月、発芽に2週間もかかって
効率が悪い。これに対し、米麹は元麹(胞子)と麹室(こうじむろ:温度を 25〜30 度、湿度を 60〜
75%に保つ密閉温蔵庫)さえあれば、匠なら2日間の徹夜仕事でできるというのが譲吉の発想であ
った。炭水化物をデキストランやグルコースに溶化・糖化するのは酒造りの第一段階であるが、これ
を担うのが麹菌や麦芽に含まれるジアスターゼである。日本酒もウイスキーもアルコールであること
は変わらない。米国式の麦芽ではなく米麹菌を使用し、原料として小麦の穀粒ではなく穀皮(麸:
ふすま、bran)を利用する試みは、余りにも斬新である上に収益性・効率性が高く、生産コストも安
かった。ウイスキーの本場ピオリア(シカゴの南西 260 キロ)においては、日本の作り酒屋で言えば1
年分に相当する三千石の酒造をわずか1日でこなしていた大醸造家はいくつもあった。そこで雇用
されていた多数のモルト職工やモルト製造業者は失職ないし倒産の危機感を感じ、2111 North
Jefferson にあった Takamine Ferment Company(高峰発酵素会社)に放火してしまった。ウイスキー
用の製麹事業は頓挫し、譲吉は失意のどん底にあって肝臓膿瘍を発症し、開腹手術のため半年
近くも入院生活を送る。しかし、入院中に病院では消化薬が必要であることを知った譲吉はすぐに
ひらめいた。ウイスキー醸造用に作った新しい米麹菌が産生するタカ・ジアスターゼは、炭水化物
(澱粉)を溶化する作用が強いので消化薬に転用できるのではないか?! 瓢箪から駒式の譲吉
の発想に、デトロイトにある当時世界最大の製薬会社であったパーク・デービス社(1866 年創業)が
飛びついた。タカ・ジアスターゼは、わずか 1g で 150g もの澱粉を 10 分で分解できるほど、消化力
が強かったためである。


 譲吉は、ウイスキー造りと消化薬の開発を契機に日本古来の麹菌を全世界に広めた。日本酒や
醤油、味噌造りに必須の麹菌(アスペルギルス・オリゼーやアスペルギルス・ソーヤなどのコウジカ
ビ属)に始まった高峰流酵素学は、今日、応用範囲が広い。製パンや製菓(小麦粉改良)、ビール
(発酵度コントロール)造りに用いられるアミラーゼや、洗剤(油汚れ除去)や紙・パルプ(ピッチコン
トロール)、油脂(加工)造りに用いられるリパーゼはアスペルギルス・オリゼーを用いて生産される。
その他、繊維工業(漂白剤除去:酸化還元酵素)や飼料(飼料添加物:フィターゼ)、乳製品造りな
どでも幅広く応用されていることを見ても、譲吉の先見性は一目瞭然である。今日では、遺伝子組
み換えのアスペルギルス・オリゼーから生産された酵素は上記以外の種々の産業分野でも使われ
ている。アスペルギルス・オリゼーについてはすでに全ゲノム解析が完了しているが、残念ながら日
本は後塵を拝した。


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高峰譲吉が関与した起業は余りにも多い。世界初の微生物酵素であるタカ・ジアスターゼや世
界で発見された初のホルモンであるアドレナリンを販売したパーク・デービス社はワーナー・ランバ
ート社を経てファイザー社に、三共商店は三共株式会社を経て第一三共株式会社に発展した。日
本初の化学肥料を作った会社であった東京人造肥料は大日本肥料を経て日産化学となった。Dr.
Bakeland の発明に基づき、我が国で初めてベークライトを作った日本ベークライトは住友ベークラ
イトとなった。富山県の黒四ダムや黒部峡谷鉄道もアルミニウム工業の将来性を見越した成果であ
る。科学技術面においても、国民科学研究所は理化学研究所となり、醸造試験場は酒類総合研
究所となっている。現在の我が国の特許制度も専売特許局の職員として高峰譲吉が創設したもの
である。米国においても、Takamine Ferment は Technical Licensing となり、Takamine Laboratory
は Miles、Solvay、Genencor 社を経て、Danisco 社となった。


アドレナリンと副腎
  現在、1世紀以上の長きにわたり愛用されている医薬品は、アスピリンとタカ・ジアスターゼおよ
びアドレナリンの3つしかない。このうち、2つまでもが高峰博士の研究成果である。副腎で分泌さ
れ心臓や肝臓など別の臓器で機能するので、アドレナリンはホルモンの範疇に入る。空腸に希塩
酸である胃酸が入ると、これを中和するためにアルカリ性の膵液が分泌される。膵液の分泌促進物
質・セクレチンの発見者である E.H. Starling が、「ホルモン」の概念を初め
て提唱した 1905 年に 5 年も先行してアドレナリンは発見された。
しかも、最初に結晶化されたホルモンもアドレナリンである。
アドレナリンは、ドーパやドーパミン、ノルアドレナリンと
同様にカテコール基(ベンゼン環に水酸基が2個付いたもの)
とアミノ基とを持つカテコールアミンの一つである。チロシ
ンからドーパを経て順にドーパミン、ノルアドレナリン、ア
ドレナリンへと生合成される。


 アドレナリンは、ヒトを含め動物を戦闘体制に置く活動ホルモンである。運動時や興奮時にはアド
レナリンが全身を駆け回っていると考えれば良い。アドレナリンが血中に放出されると、瞳孔は大き
くなる。心臓では平滑筋の収縮と弛緩を促進するので、心拍数が増加して拍出する血液量が増加
し血圧が上昇する。肝臓においてはグリコーゲン分解が亢進して、ブドウ糖の血中濃度(血糖値)
が上昇する。末梢血管は収縮するので血圧が上昇し、筋肉内血管は拡張するので運動能力が高
まる。


 一方、アドレナリンは薬剤としても身近で、誰もが知らず知らずのうちにその恩恵にあずかってい
る。たとえば、歯の治療では局所麻酔剤に3%程度のアドレナリンが混入されており、血止めの薬と
なっている。鼻血が止まらない時は、アドレナリンの千倍希釈液を垂らした綿球を鼻腔内に詰める。
目が充血した時は、アドレナリン入りの点眼薬を使えば、即効性がある。喘息の時はアドレナリンを


                                                                        3
吸入すると気管支が拡張するので、発作がおさまる。外科医が手術時に皮膚を切開する前にアド
レナリン入りの局所麻酔剤を皮下に注入しておくと、出血量が最小限で済む。また、心停止時や出
血性ショックの際に心室内に緊急投与する蘇生薬でもあった。つまり、アドレナリンがなければ、医
療は出来ない。アドレナリンを多量に含む副腎は19世紀には、止血作用があるので軍医に重用さ
れていた。世界各地の戦争で創部からの出血性ショックで死亡する兵士が続発していたからである。
出血が止まらない創部に牛や羊の副腎の乾燥粉末を塗布すると、不思議なくらいに出血がぴたり
と止まる。しかし、乾燥粉末には異種蛋白が含まれるためアナフィラキシー・ショックが起きやすく、
1890 年代には副腎に含まれる止血物質の抽出精製が渇望されていた。


  副腎研究の歴史は、19世紀半ばに始まる。1855 年にロンドンの臨床医 Thomas Addison は副腎
結核によるアジソン病を報告し、この臓器が医学界で初めて注目された。1856 年に脊髄の半側切
截症候群で有名なフランスの神経生理学者 Charles-Édouard Brown-Séquard は、両側の副腎を摘
出すると動物は死ぬことを報告し、この臓器は生命維持に必須であるとした。また、同じ年にフラン
スの Edmé Félix Alfred Vulpian は、副腎組織が塩化第二鉄で緑色、ヨードで桃色あるいはバラ色を
呈すことを発見した。この呈色反応がいわゆる、ヴルピアン反応である。その後、1885 年になって
F. Krukenberg は、この呈色反応はカテコール基とその誘導体に由来することを証明した。さらに、
1894 年にロンドンの University College の生理学教授であった Edward Albert Schäfer は、その弟
子 George Oliver と共に公開実験を行い、副腎エキスに血圧上昇作用があることを報告した。すな
わち、水→アルコール→グリセリンを溶媒として、段階的に抽出した副腎エキスをウサギの耳静脈
に注尃すると、その血圧が上昇することを示した。しかも、翌年の 1895 年には同じく Schäfer 門下の
B. Moore は、昇圧作用を持つこの副腎エキスは塩化第2鉄と反応すると緑色になるという Vulpian
の報告を再確認していた。Schäfer と Oliver の公開実験と発表論文を契機として 1895 年頃から、副
腎エキスに含まれる生理活性物質を結晶化しようとする英(B. Moore)・独(Otto v. Fürth)・米(J.J.
Abel)の3大グループの熾烈な戦いが始まった。その代表格が、後年、高峰博士の宿年のライバル
となったジョンズ・ホプキンス大学・薬理学教授の John Jacob Abel (1857-1938)であった。しかし、
Moore の研究はそれ以上進捗せず、Fürth はブタの副腎からスプラレニンというまがい物を抽出す
るのに留まった。高峰博士は、何年か遅れて副腎エキス結晶化の研究に参画したが、Moore の報
告を最も重要視していたに違いない。


アドレナリン結晶化の先陣争い
  Abel は、米国生化・分子生物学会を創設した米国薬理学会の重鎮
で、The Journal of Biological Chemistry の創刊者でもある。1890 年代
から 1900 年初頭にかけての Abel の論文発表には鬼気迫るものがある。
1897 年の Johns Hopkins Hosp Bull (8: 151-156)と 1898 年の Johns
Hopkins Hosp Bull (9: 215-219)においては、副腎エキスの有効成分
は C17H15NO4 であると報告した。1899 年には、Z. Physiol Chemie (28:




                                                                    4
318-362)において、その有効成分を Epinephrin と命名した。その理由は、ドイツの解剖学教科書
(Lehrbuch der Anatomie des Menschen)では副腎のことを Hyrtl が Epinephris と呼称していたので、
それを改変した訳である。さらに、1901 年から 1902 年にかけて、Johns Hopkins Hosp Bull に3編の
論文(12: 80-84; 12:337-343; 13:29-35)を発表し、Epinephrin の化学構造を C10H11NO3 または
C10H13NO3 と報告した。さらに、翌年の 1903 年には Berl Dtsch Chem Ges (36: 1839-1847)にお
いては、Epinephrin hydrate の化学構造は C10H13NO3・1/2 H2O であるとした。つまり、Epinephrin
の化学構造に関する Abel の発表には全く一貫性がなく、Abel は迷路にはまり込んでいたことがよく
わかる。この最大の理由は、Abel のアドレナリン精製法が根本的に間違っていたためである。




 Abel は副腎エキスを強引にベンゾイル化することで、エピネフリンを結晶化しようとした。しかし、
この手法は非論理的な上にかなり強引であった。 エピネフリンの-N-C=Oは化学構造がアミド
(ペプチド)結合に似ていて、結合力が強い。したがって、一旦ベンゾイル基がくっ付いてしまうと、
極性が落ちるので水に溶けず、油(タール状)となってしまう。つまり、抽出の第一段階そのものが、
結晶化を不可能にする操作であり、Abel は期せずして変形した不純物を精製していたことになる。
しかも、ベンゼン環の水酸基は酸化されやすいのに、これを無視して、Abel は空気中で抽出作業
をやっていた。これでは、副腎エキスは抽出できるはずがない。しかも、ヴルピアン反応という最終
確認法を採用しなかったことが致命的であった。高峰・上中コンビは Abel の手法を追試し、そのベ
ンゾイル結合体がヴルピアン反応を示さないことまで確認済みであった。




                                                      菅野富夫論文(現代化学)

                                                      図3より引用・著者改変




                                                                       5
これに対し、高峰譲吉の助手である上中啓三(うえなか・けいぞう:1876〜1960)の結晶抽出法は、
基礎に忠実な上に、弱酸や弱アルカリを用いたデリケートそのものの抽出法であった。上中は 1887
年に喘息や咳止めの特効薬であるエフェドリンの抽出に成功した東京帝大・長 井 長 義 教 授 の弟
子であった。日 本 薬 局 方 の作 成 に深 く関 わった長 井 長 義 は、アド レナリンに似 た構 造 のエ
フェドリンを麻 黄 (マオウ)から世 界 で初 めて精 製 した薬 学 会 の権 威 である。正 式 な学 歴 と
                 はならない 東大薬学撰科の出身であることに昇進の限界を感じた
                 上中は、2年近くの研究で何の成果も得られなかった高 峰 博 士 の
                 招 聘 によりニューヨークに渡 り、湯煎と真空蒸発、時計皿を用いて
                 長井教授に教わった通りの結晶抽出法を再現した。長井長 義 は植
                 物アルカロイドの抽出には試験管を使わず、直径10センチ程度の
                 時計皿を愛用していた。白紙に反尃させて結晶を観察するには、時
                 計皿が便利であったからである。しかも、真空蒸留法が一般化して
                 いないこの時期に、上中はこの手法を採用した。


 ラッキーなことには、アドレナリンの化学構造はエフェドリンに類似していたので、上中は教わっ
た通りの抽出法を再現すれば良かった。さらに、米国には肉食の地の利があり、当時、実験用に必
要な大量の牛と羊の副腎が入手し得た。9Kg もの副腎組織から、わずか7g のアドレナリン結晶が
精製できるに過ぎない。9Kg もの副腎組織は、結晶抽出の依頼主であるパーク・デービス社が高
峰ラボラトリーに調達してくれたのである。しかも、上中が冴えていたのは、アドレナリン結晶の確認
のために、ヴルピアン反応を採用したことであった。




           エフェドリンの化学構造         アドレナリンの化学構造


 高峰・上中コンビは討論しながら試行錯誤を繰り返し、アドレナリンの結晶化を着実に進めて行
ったが、Moore の報告を重視した彼らの戦略は実にスマートであった。その要点は5点にまとめるこ
とができる。すなわち、1)ベンゼン環の水酸基(−OH)は酸化されやすいので、抽出は真空中で行
い、回収効率を良くした。2)酢酸と加温(90℃)で徐蛋白と熱凝固をした後、アミノ基(−NH)の水溶
性を利用して抽出した。しかも、3)アミノ基(−NH)が水溶性のため、結晶とはならないので、最後
にアンモニア(NH3)を添加し析出させた。そして、4)真空中で水を飛ばし、残った酢酸をアンモニ
アで中和した。最後に、5)塩化第2鉄で呈色反応を確認する。現代の知識からすれば、単純明快
そのものの実験手法である。




                                                        6
Adrenalin C9H13NO3

                              4-[1-ヒドロキシ-2-(メチルアミノ)エチル]ベンゼン-1,2-ジオール)




上中実験ノート
 上中はセントラルパーク街 106W にあるアパート半地下のラボで、
徹夜を重ねて行った半年近くの実験記録を小さなノートに残した。
表紙に On Adrenalin MEMORANDUM, July to September, 1900,
UENAKA と書かれた、縦書き・二段組みの、10×15 センチ大の実
験ノート(原物は西宮市名塩の教行寺に保管)の走り書き記載は、
誠に臨場感に溢れている。この実験ノートの存在は上中啓三が生
前意識的に伏せていたが、その没後、遺族から昭和40年に科学
史家の山下愛子氏に手渡され、同氏によってアドレナリン研究資
料としてアドレナリン発見 100 年目の2000年(平成9年)に紹介さ
れた。


 以下は、アドレナリンの結晶化に成功した前後の下りである。


7 月 20 日:
※高峯博士パークデヴィス社紐育支店より腎上腺・水製エキスを携え帰り、余に主成分々離の予試験を
命ぜられる。
  余は彼等(エーベル教授、ヒュルト博士)の研究また遺漏なかりしとは信ずる能わず。ついに前掲試
  験を試みるに到りしが、果して彼等が明示したるが如くアルカリ性となしたるエキスはアーミン様臭気
  を放つの外異状を呈せず。
8 月 4 日:
  一夜の後、アルカリ性となしたる液中に結晶を簇生(そうせい)せり。これを濾紙に取り水にて洗滌し
  て乾燥するに、かすかに褐色を帯びたる結晶状粉末となれり。水、アルコール等には新晶体は不溶
  にして、稀硫酸その他の酸に頗る溶け易し。
  塩化第二鉄には特異の緑色を呈す。(註:ヴルピアン反応)


                                                                        7
8 月 5 日:
  新晶体は従来研究者が腺内主成分を分離し得ざりしと雖も、その化学的反応によりて主成分の特徴
  を予示したる処と符号するを以て、いよいよ主成分分離は我ラボラトリーに於て成功したるを確信す
  るに至れり。
8 月 13 日:
  アンモニアにてアルカリ性となすに、たちまちにして白色美麗の針状結晶は析出す。
8 月 21 日:
  余の実験の証する限界内にては、新晶体はエーベル教授のエピネフリンとは異なれるや明らけし。


  明治調スタイルで、アンモニアを安門、エーテルを依的留、アルコールを亜留古保留などと記載
してあるので多尐わかりづらいが、アドレナリンを結晶化したのはまぎれもなく、弱冠24歳の上中啓
三であったことが読み取れる。


高峰譲吉の評価
  アドレナリン(adrenalin:高峰は末尾に e を付けない)の結晶化に成功した翌年 1901 年の高峰博
士の学会活動は凄まじい。1 月下旬には、New York の Society of the Chemical Industry で結晶化
の成功を発表した(J Soc Chem Indust 20: 746, 1901(抄録))。4 月 27 日には、何と、Abel の本拠
地である Baltimore の The Johns Hopkins Hospital University で口演した。6 月 4-7 日には、
Minneapolis の 52nd Annual Meeting of the American Med Assoc で口演した。ついで、9 月 16-21
日には St. Louis の The American Parmaceutical Assoc で、10 月 15 日には、Philadelphia の The
College of Pharmacy において発表した(Philadel Med J 7: 819, 1902 (抄録))。さらに、12 月 3 日
には、英国 Edinburgh の Meeting of Medical Men of the School of Medicine において発表した
(Scotish Med Surg J 10: 131-138, 1902)。12 月 14 日には、London の The Physiological Society
において代理報告させた(J Physiol 27; Proc Phisiol Soc 29-30, 1902 (抄録))。


  以上の発表は欧米の学界に大きな衝撃を与えると同時に、称賛を受けた。汽車と船しか移動手
段がないこの時代に 1 年の間にこれだけの都市を精力的に移動し、成果を学会発表したということ
は、余程の手応えを感じていたからに相違ない。もちろん、米国と英国でアドレナリン製造に関する
特許を申請した。


  高峰博士は、7回に及ぶ学会講演で次のように述べた。「昨年の夏、私は活性物質たる塩基を
安定な結晶として抽出することに成功したので紹介したい。私は、この分野において決して先駆者
ではないが、従来の研究者は誰も活性成分を結晶として取り出していないし、彼らの間で激しい論
争が続いていることを承知している。私は、自分が抽出した活性物質をアドレナリンと命名した」パ
ーク・デービス社は、早速、ウシの副腎 240Kg から 200g のアドレナリンを精製し、その結晶の 1,000
倍希釈液を作って全米の病院で臨床試験を行った。その結果は推して知るべしである。1903 年に
はアドレナリンは Adrenalin (Takamine.)としてパーク・デービス社は全世界で発売開始した(日本で


                                                                                   8
は三共の独占販売)が、その 2 年後には日露戦争に赴いた帝国海軍病院船の西京丸・神戸丸に
             .
規定外の医薬品として「アドリナリン」が積み込まれていた。


 アドレナリンのヒットを目の当たりにして、実験中の
事故で片目の視力と片腕の自由を失った Abel は地
団駄を踏んで悔しがっていたに相違ない。ところが、
アドレナリンの精製と結晶化成功の歴史は、高峰博士
よりも十数年長生きした Abel によって完全にゆがめら
れてしまった。高峰の死後(1922)、アドレナリンの特許
権 も 商 標 も 無 効 に な った こ と を確 認 した Abel は
Science の回想論文 (66: 307-319, 337-346, 1927)に
おいて「アドレナリンはエピネフリンの盗作であるとす
る高峰盗作説」を主張した。それが、高峰を「クレバー
な剽窃者」とこき下ろしたミシガン大学・生理学教授の
H.W. Davenport をはじめ米国の研究者とその影響を
受けた日本の研究者と臨床医に受け入られ、高峰・
上中の業績に暗い影を落とした。そのために、ヨーロ
ッパでは高峰博士のプライオリティーを尊重し当初からアドレナリンと呼称されてきたのに、なぜか、
米国とそれに追随する日本では、アドレナリンの正式呼称は用いられず、Abel が提唱したエピネフ
リンの呼称が用いられてきた。結晶化では実質上敗北した Abel が、優先権を主張しせめて名称の
みでもこの世に残そうとこだわったからであろう。副腎エキスをエピネフリンと呼ぶのが妥当ではな
いことは今日多くの人が認めつつあり、アドレナリンの呼称が国際的に普及している。医学会の大
御所である Abel に遠慮して、永年に亘り封印されてきたアドレナリン発見の真相は、著者が英文論
文として右のジャーナルに報告した。


 高峰譲吉のベンチャー成功の秘訣は5点ほど上げられる。1)欧米の技術と日本の伝統とをミック
スして、和洋折衷で Something NEW を作った。2)研究論文よりは特許と契約書とを重視するベン
チャー起業家の色彩が強く、かせいだパテント料を次の研究に充てた。1900 年、米国に渡った野
口英世の最初の月給が 50 ドルの時代に、パーク・デービス社からのタカ・ジアスターゼのパテント
料が毎年 12,000 ドルで、コンサルタント料は年額で 3,600 ドルであった。3)研究をするに際しては、
必ずモノを作る事にこだわり、学術論文のレベルやスタイルには頓着しない。研究開発する際には、
4)必ず、有力なサポーターを傍に置く。たとえば、元麹改良には技師の肥田密三、ウイスキー造り
には杜氏の藤木幸助、そして、アドレナリン結晶化には上中啓三である。その時々の目的に応じ、
実に巧妙な人選を行っている。そして、5)最大のサポーターは、12 歳年下の米国人妻キャロライン
であった。この女性がいなければ、1 世紀以上も前にタカ・ジアスターゼもアドレナリンも誕生してい
ないはずである。キャロラインは譲吉を日本から米国へ連れ出し、株で一儲けをした自分の母メアリ
ー・ヒッチをしてウイスキー造りのスポンサーとせしめ、家内仕事で譲吉の不遇時代を支えた。肝臓


                                                      9
病の譲吉を、リスクを覚悟で列車を止めてシカゴの病院へ搬送し、開腹手術を受けさせるほど肝っ
玉がすわった妻君である。しかも、博士の没後 23 歳年下の牧場主と再婚し、譲吉の孫二人を育て
つつ 30 年連れ添った。譲吉と共にニューヨーク・ウッドローン墓地に眠るが、このようなスーパー・レ
ディーを妻に迎えたのも、譲吉の才能の一つであったに違いない。このセミトリーの案内板には、
高峰譲吉は「近代バイオテクノロジーの父(Father of modern biotechnology)」と記されている。


  高峰・上中両博士のアドレナリン結晶化の70年後の 1970 年に、スウェーデンの U.S. von Euler
は、メチル基側鎖を欠くアドレナリン、すなわちノルアドレナリンが神経伝達物質の一つであることを
発見して、ノーベル医学生理学賞を受けた。これは、70年前の高峰の業績自身がまぎれもなくノ
         ..
ーベル賞に価していたこと、アドレナリンの研究が発酵酵素学や内分泌学だけではなく、今日、神
             ..
経科学分野にまで波及していることを意味する。アドレナリンを分泌する副腎髄質細胞がニューロ
ンに最も近い内分泌型パラニューロンであることは、今日、研究者の常識となっている。高峰・上中
両博士がベンチャーに走らず副腎に関する基礎研究を続けていれば、さらなる大発見も出来たか
も知れない。


  最後に、著明なジャーナリストであると同時に教育者でもあった John H. Finley 博士による高峰
博士追悼の詩を紹介したい。


   Time will dim the memory of his face, but it will only multiply his service to mankind, for
wherever the substances of his discovery are used to assist a surgeon or physician, there will Dr.
Takamine be present.


             ‘Born Samurai, a Far East Knight,
              He yielded his two swords to fight,
                With science’ weapons mans’ real foes,
                  To lengthen life and stanch it woes.’


                                                                 by John H. Finley




                                                                                               10
参考文献
1) Takamine J. : Adrenalin, the active principle of the suprarenal glands, and its mode of preparation.
     American J Pharmacy, 73:523-531, 1901
2) Kawakami K.K. : Jokichi Takamine, A record of his American achievements. 1-74pp. William Edwin
     Rudge, New York, 1928
3) 都築洋次郎、山下愛子 : アドレナリンの発見史—本邦科学者の独創性にかんする化学史的研究
     科学史研究 47:1-8, 1958
4) Miles Inc. (Preface by Bennett) J.W. : TAKAMINE: Documents from the dawn of industrial
     biotechnology. 1-49, 1988
5) 佐野 豊 アドレナリン発見への道程 ミクロスコピア 6: 194-200, 1989
6) 菅野富夫 アドレナリン発見 100 年の光と陰 —高峰譲吉と上中啓三の共同研究に学ぶー ミクロ
     スコピア 17:98-105、2000
7) 菅野富夫 アドレナリンとエピネフリン:
最初のホルモン結晶化競争
-アドレナリン発見から 100 年
     -
、現代化学 357:14-20, 2000
8) 飯沼和正・菅野富夫 高峰譲吉の生涯 アドレナリン発見の真実 1-347 頁、朝日新聞社 2000 年
9) アグネス・デ・ミル著、山下愛子訳 —アドレナリン発見 100 年記念— 高峰譲吉伝 松楓殿の回想
     1-303 ページ 雄松堂出版 2000 年
10) 佐野 豊 国際組織細胞学会主催 「高峰譲吉のアドレナリン発見百年記念シンポジウム」講演 —
     副腎の宝探し:百年前の熾烈な競争— 2000 年 6 月 24 日 金沢
11) 山嶋哲盛 : 日本科学の先駆者 高峰譲吉 岩波ジュニア新書 375 1-184 頁、岩波書店 2001
     年
12) Aiko Yamashita. : Research note on adrenaline by Keizo UENAKA in 1900. Biomed Res, 23: 1-10,
     2002
13) Yamashima T. : Jokichi Takamine (1854-1922), the samurai chemist, and his work on adrenalin. J
     Med Biogr. 11:95-102, 2003.


お断り:本論文は、杏林書院発行の「体育の科学 59(8):518-527, 2009」に発表した。




                                                                                                    11

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  • 1. アドレナリンの発見と高峰譲吉 山 嶋 哲 盛 (やましまてつもり) 金沢大学大学院医学系研究科再生脳外科学 電子メール:yamashima215@gmail.com はじめに 高峰譲吉博士のプロフィールを一言で紹介するに際し、我が国で は『酵素化学と内分泌学の父』、外国では『Samurai Chemist』という表 現がなされている。なぜ、このような紹介がなされたのか、誠に興味深 いものがある。 譲吉は、加賀藩前田家の典医であると同時に金澤醫学館の理化学 局教師であった父 精一(元稑:げんろく)と、高岡の造り酒屋の娘であ った母 幸子(ゆきこ)の長男として、幕末の風雲急を告げる安政元年 (1854)11 月 3 日に産まれた。幼尐時代は、大小二刀を差して加賀藩の藩校である明倫堂で学び、 12 歳で長崎へ留学し、舎密(セイミ—シェミー—chemie—化学)に関心を持つようになり、東京帝国大 学工学部の前身である工部大学校の応用化学科に進んだ。その後、明治政府の官費留学生とし てイギリスに留学し、グラスゴー大学とアンダーソニアン研究所において机上の学問ではなく、物を 作る実学の必要性と重要性とを学んで帰国した。 高峰譲吉は、大正 11 年(1922)の 7 月 22 日に没するまでの 68 年の生涯に数々の偉業を私設 研究所や居宅、別荘において成し遂げているが、極め付きは、1)36 歳の時に行った元麹改良法、 2)40 歳時のタカ・ジアスターゼ(Takamine - Kohji - diastase)の精製、3)46 歳時のアドレナリンの結 晶化、および4)50 歳以降に行った日米親善事業であろう。それ以外にも、人造肥料(過リン酸石 灰)の普及、富山県におけるアルミ工業や水力発電の普及、理化学研究所創設の唱導、ニューヨ ークの日本倶楽部の創設など、枚挙に暇がないほどである。日米にまたがるその足跡は余りにも多 岐にわたり、限られた紙面では到底書き尽くせないが、本稿ではアドレナリンの精製・結晶化に話 題を絞ってみたい。 ベンチャー起業家 高峰譲吉のポリシーは「模倣的であることは、独創的であることの先駆に他ならない」と本人も述 べている通り、模倣の上に独創を重ねることであった。模倣とは、当時の先進国であったイギリスや 米国の技術ともの造りを真似ることであり、独創とは我が国古来の技術、すなわち醸造や発酵の技 1
  • 2. 術を模倣の上に積み重ねることであった。乳鉢で薬剤を調合する父の姿と母の実家・鶴来屋で見 聞きした日本酒醸造は、米国でのウイスキー作りに生かされた。冷蔵運搬法のない明治時代には、 各地方においては、それぞれがお国自慢の種麹(コウジカビ、糸状菌、アスベルギルス菌)を用い て地酒を作るしかなかった。譲吉の発想は、種麹は水分が多く腐敗しやすいので遠方には持ち運 びできない。そこで、含水率を低くし混入澱粉や夾雑物を除去することで、常温で長距離輸送して も腐敗しない元麹を造り、これを米国に持参してロー・コストのウイスキーを作ろうというものであっ た。 米国流に麦芽(モルト、モヤシ)を用いる手法だと大麦の栽培に6ヶ月、発芽に2週間もかかって 効率が悪い。これに対し、米麹は元麹(胞子)と麹室(こうじむろ:温度を 25〜30 度、湿度を 60〜 75%に保つ密閉温蔵庫)さえあれば、匠なら2日間の徹夜仕事でできるというのが譲吉の発想であ った。炭水化物をデキストランやグルコースに溶化・糖化するのは酒造りの第一段階であるが、これ を担うのが麹菌や麦芽に含まれるジアスターゼである。日本酒もウイスキーもアルコールであること は変わらない。米国式の麦芽ではなく米麹菌を使用し、原料として小麦の穀粒ではなく穀皮(麸: ふすま、bran)を利用する試みは、余りにも斬新である上に収益性・効率性が高く、生産コストも安 かった。ウイスキーの本場ピオリア(シカゴの南西 260 キロ)においては、日本の作り酒屋で言えば1 年分に相当する三千石の酒造をわずか1日でこなしていた大醸造家はいくつもあった。そこで雇用 されていた多数のモルト職工やモルト製造業者は失職ないし倒産の危機感を感じ、2111 North Jefferson にあった Takamine Ferment Company(高峰発酵素会社)に放火してしまった。ウイスキー 用の製麹事業は頓挫し、譲吉は失意のどん底にあって肝臓膿瘍を発症し、開腹手術のため半年 近くも入院生活を送る。しかし、入院中に病院では消化薬が必要であることを知った譲吉はすぐに ひらめいた。ウイスキー醸造用に作った新しい米麹菌が産生するタカ・ジアスターゼは、炭水化物 (澱粉)を溶化する作用が強いので消化薬に転用できるのではないか?! 瓢箪から駒式の譲吉 の発想に、デトロイトにある当時世界最大の製薬会社であったパーク・デービス社(1866 年創業)が 飛びついた。タカ・ジアスターゼは、わずか 1g で 150g もの澱粉を 10 分で分解できるほど、消化力 が強かったためである。 譲吉は、ウイスキー造りと消化薬の開発を契機に日本古来の麹菌を全世界に広めた。日本酒や 醤油、味噌造りに必須の麹菌(アスペルギルス・オリゼーやアスペルギルス・ソーヤなどのコウジカ ビ属)に始まった高峰流酵素学は、今日、応用範囲が広い。製パンや製菓(小麦粉改良)、ビール (発酵度コントロール)造りに用いられるアミラーゼや、洗剤(油汚れ除去)や紙・パルプ(ピッチコン トロール)、油脂(加工)造りに用いられるリパーゼはアスペルギルス・オリゼーを用いて生産される。 その他、繊維工業(漂白剤除去:酸化還元酵素)や飼料(飼料添加物:フィターゼ)、乳製品造りな どでも幅広く応用されていることを見ても、譲吉の先見性は一目瞭然である。今日では、遺伝子組 み換えのアスペルギルス・オリゼーから生産された酵素は上記以外の種々の産業分野でも使われ ている。アスペルギルス・オリゼーについてはすでに全ゲノム解析が完了しているが、残念ながら日 本は後塵を拝した。 2
  • 3. 高峰譲吉が関与した起業は余りにも多い。世界初の微生物酵素であるタカ・ジアスターゼや世 界で発見された初のホルモンであるアドレナリンを販売したパーク・デービス社はワーナー・ランバ ート社を経てファイザー社に、三共商店は三共株式会社を経て第一三共株式会社に発展した。日 本初の化学肥料を作った会社であった東京人造肥料は大日本肥料を経て日産化学となった。Dr. Bakeland の発明に基づき、我が国で初めてベークライトを作った日本ベークライトは住友ベークラ イトとなった。富山県の黒四ダムや黒部峡谷鉄道もアルミニウム工業の将来性を見越した成果であ る。科学技術面においても、国民科学研究所は理化学研究所となり、醸造試験場は酒類総合研 究所となっている。現在の我が国の特許制度も専売特許局の職員として高峰譲吉が創設したもの である。米国においても、Takamine Ferment は Technical Licensing となり、Takamine Laboratory は Miles、Solvay、Genencor 社を経て、Danisco 社となった。 アドレナリンと副腎 現在、1世紀以上の長きにわたり愛用されている医薬品は、アスピリンとタカ・ジアスターゼおよ びアドレナリンの3つしかない。このうち、2つまでもが高峰博士の研究成果である。副腎で分泌さ れ心臓や肝臓など別の臓器で機能するので、アドレナリンはホルモンの範疇に入る。空腸に希塩 酸である胃酸が入ると、これを中和するためにアルカリ性の膵液が分泌される。膵液の分泌促進物 質・セクレチンの発見者である E.H. Starling が、「ホルモン」の概念を初め て提唱した 1905 年に 5 年も先行してアドレナリンは発見された。 しかも、最初に結晶化されたホルモンもアドレナリンである。 アドレナリンは、ドーパやドーパミン、ノルアドレナリンと 同様にカテコール基(ベンゼン環に水酸基が2個付いたもの) とアミノ基とを持つカテコールアミンの一つである。チロシ ンからドーパを経て順にドーパミン、ノルアドレナリン、ア ドレナリンへと生合成される。 アドレナリンは、ヒトを含め動物を戦闘体制に置く活動ホルモンである。運動時や興奮時にはアド レナリンが全身を駆け回っていると考えれば良い。アドレナリンが血中に放出されると、瞳孔は大き くなる。心臓では平滑筋の収縮と弛緩を促進するので、心拍数が増加して拍出する血液量が増加 し血圧が上昇する。肝臓においてはグリコーゲン分解が亢進して、ブドウ糖の血中濃度(血糖値) が上昇する。末梢血管は収縮するので血圧が上昇し、筋肉内血管は拡張するので運動能力が高 まる。 一方、アドレナリンは薬剤としても身近で、誰もが知らず知らずのうちにその恩恵にあずかってい る。たとえば、歯の治療では局所麻酔剤に3%程度のアドレナリンが混入されており、血止めの薬と なっている。鼻血が止まらない時は、アドレナリンの千倍希釈液を垂らした綿球を鼻腔内に詰める。 目が充血した時は、アドレナリン入りの点眼薬を使えば、即効性がある。喘息の時はアドレナリンを 3
  • 4. 吸入すると気管支が拡張するので、発作がおさまる。外科医が手術時に皮膚を切開する前にアド レナリン入りの局所麻酔剤を皮下に注入しておくと、出血量が最小限で済む。また、心停止時や出 血性ショックの際に心室内に緊急投与する蘇生薬でもあった。つまり、アドレナリンがなければ、医 療は出来ない。アドレナリンを多量に含む副腎は19世紀には、止血作用があるので軍医に重用さ れていた。世界各地の戦争で創部からの出血性ショックで死亡する兵士が続発していたからである。 出血が止まらない創部に牛や羊の副腎の乾燥粉末を塗布すると、不思議なくらいに出血がぴたり と止まる。しかし、乾燥粉末には異種蛋白が含まれるためアナフィラキシー・ショックが起きやすく、 1890 年代には副腎に含まれる止血物質の抽出精製が渇望されていた。 副腎研究の歴史は、19世紀半ばに始まる。1855 年にロンドンの臨床医 Thomas Addison は副腎 結核によるアジソン病を報告し、この臓器が医学界で初めて注目された。1856 年に脊髄の半側切 截症候群で有名なフランスの神経生理学者 Charles-Édouard Brown-Séquard は、両側の副腎を摘 出すると動物は死ぬことを報告し、この臓器は生命維持に必須であるとした。また、同じ年にフラン スの Edmé Félix Alfred Vulpian は、副腎組織が塩化第二鉄で緑色、ヨードで桃色あるいはバラ色を 呈すことを発見した。この呈色反応がいわゆる、ヴルピアン反応である。その後、1885 年になって F. Krukenberg は、この呈色反応はカテコール基とその誘導体に由来することを証明した。さらに、 1894 年にロンドンの University College の生理学教授であった Edward Albert Schäfer は、その弟 子 George Oliver と共に公開実験を行い、副腎エキスに血圧上昇作用があることを報告した。すな わち、水→アルコール→グリセリンを溶媒として、段階的に抽出した副腎エキスをウサギの耳静脈 に注尃すると、その血圧が上昇することを示した。しかも、翌年の 1895 年には同じく Schäfer 門下の B. Moore は、昇圧作用を持つこの副腎エキスは塩化第2鉄と反応すると緑色になるという Vulpian の報告を再確認していた。Schäfer と Oliver の公開実験と発表論文を契機として 1895 年頃から、副 腎エキスに含まれる生理活性物質を結晶化しようとする英(B. Moore)・独(Otto v. Fürth)・米(J.J. Abel)の3大グループの熾烈な戦いが始まった。その代表格が、後年、高峰博士の宿年のライバル となったジョンズ・ホプキンス大学・薬理学教授の John Jacob Abel (1857-1938)であった。しかし、 Moore の研究はそれ以上進捗せず、Fürth はブタの副腎からスプラレニンというまがい物を抽出す るのに留まった。高峰博士は、何年か遅れて副腎エキス結晶化の研究に参画したが、Moore の報 告を最も重要視していたに違いない。 アドレナリン結晶化の先陣争い Abel は、米国生化・分子生物学会を創設した米国薬理学会の重鎮 で、The Journal of Biological Chemistry の創刊者でもある。1890 年代 から 1900 年初頭にかけての Abel の論文発表には鬼気迫るものがある。 1897 年の Johns Hopkins Hosp Bull (8: 151-156)と 1898 年の Johns Hopkins Hosp Bull (9: 215-219)においては、副腎エキスの有効成分 は C17H15NO4 であると報告した。1899 年には、Z. Physiol Chemie (28: 4
  • 5. 318-362)において、その有効成分を Epinephrin と命名した。その理由は、ドイツの解剖学教科書 (Lehrbuch der Anatomie des Menschen)では副腎のことを Hyrtl が Epinephris と呼称していたので、 それを改変した訳である。さらに、1901 年から 1902 年にかけて、Johns Hopkins Hosp Bull に3編の 論文(12: 80-84; 12:337-343; 13:29-35)を発表し、Epinephrin の化学構造を C10H11NO3 または C10H13NO3 と報告した。さらに、翌年の 1903 年には Berl Dtsch Chem Ges (36: 1839-1847)にお いては、Epinephrin hydrate の化学構造は C10H13NO3・1/2 H2O であるとした。つまり、Epinephrin の化学構造に関する Abel の発表には全く一貫性がなく、Abel は迷路にはまり込んでいたことがよく わかる。この最大の理由は、Abel のアドレナリン精製法が根本的に間違っていたためである。 Abel は副腎エキスを強引にベンゾイル化することで、エピネフリンを結晶化しようとした。しかし、 この手法は非論理的な上にかなり強引であった。 エピネフリンの-N-C=Oは化学構造がアミド (ペプチド)結合に似ていて、結合力が強い。したがって、一旦ベンゾイル基がくっ付いてしまうと、 極性が落ちるので水に溶けず、油(タール状)となってしまう。つまり、抽出の第一段階そのものが、 結晶化を不可能にする操作であり、Abel は期せずして変形した不純物を精製していたことになる。 しかも、ベンゼン環の水酸基は酸化されやすいのに、これを無視して、Abel は空気中で抽出作業 をやっていた。これでは、副腎エキスは抽出できるはずがない。しかも、ヴルピアン反応という最終 確認法を採用しなかったことが致命的であった。高峰・上中コンビは Abel の手法を追試し、そのベ ンゾイル結合体がヴルピアン反応を示さないことまで確認済みであった。 菅野富夫論文(現代化学) 図3より引用・著者改変 5
  • 6. これに対し、高峰譲吉の助手である上中啓三(うえなか・けいぞう:1876〜1960)の結晶抽出法は、 基礎に忠実な上に、弱酸や弱アルカリを用いたデリケートそのものの抽出法であった。上中は 1887 年に喘息や咳止めの特効薬であるエフェドリンの抽出に成功した東京帝大・長 井 長 義 教 授 の弟 子であった。日 本 薬 局 方 の作 成 に深 く関 わった長 井 長 義 は、アド レナリンに似 た構 造 のエ フェドリンを麻 黄 (マオウ)から世 界 で初 めて精 製 した薬 学 会 の権 威 である。正 式 な学 歴 と はならない 東大薬学撰科の出身であることに昇進の限界を感じた 上中は、2年近くの研究で何の成果も得られなかった高 峰 博 士 の 招 聘 によりニューヨークに渡 り、湯煎と真空蒸発、時計皿を用いて 長井教授に教わった通りの結晶抽出法を再現した。長井長 義 は植 物アルカロイドの抽出には試験管を使わず、直径10センチ程度の 時計皿を愛用していた。白紙に反尃させて結晶を観察するには、時 計皿が便利であったからである。しかも、真空蒸留法が一般化して いないこの時期に、上中はこの手法を採用した。 ラッキーなことには、アドレナリンの化学構造はエフェドリンに類似していたので、上中は教わっ た通りの抽出法を再現すれば良かった。さらに、米国には肉食の地の利があり、当時、実験用に必 要な大量の牛と羊の副腎が入手し得た。9Kg もの副腎組織から、わずか7g のアドレナリン結晶が 精製できるに過ぎない。9Kg もの副腎組織は、結晶抽出の依頼主であるパーク・デービス社が高 峰ラボラトリーに調達してくれたのである。しかも、上中が冴えていたのは、アドレナリン結晶の確認 のために、ヴルピアン反応を採用したことであった。 エフェドリンの化学構造 アドレナリンの化学構造 高峰・上中コンビは討論しながら試行錯誤を繰り返し、アドレナリンの結晶化を着実に進めて行 ったが、Moore の報告を重視した彼らの戦略は実にスマートであった。その要点は5点にまとめるこ とができる。すなわち、1)ベンゼン環の水酸基(−OH)は酸化されやすいので、抽出は真空中で行 い、回収効率を良くした。2)酢酸と加温(90℃)で徐蛋白と熱凝固をした後、アミノ基(−NH)の水溶 性を利用して抽出した。しかも、3)アミノ基(−NH)が水溶性のため、結晶とはならないので、最後 にアンモニア(NH3)を添加し析出させた。そして、4)真空中で水を飛ばし、残った酢酸をアンモニ アで中和した。最後に、5)塩化第2鉄で呈色反応を確認する。現代の知識からすれば、単純明快 そのものの実験手法である。 6
  • 7. Adrenalin C9H13NO3 4-[1-ヒドロキシ-2-(メチルアミノ)エチル]ベンゼン-1,2-ジオール) 上中実験ノート 上中はセントラルパーク街 106W にあるアパート半地下のラボで、 徹夜を重ねて行った半年近くの実験記録を小さなノートに残した。 表紙に On Adrenalin MEMORANDUM, July to September, 1900, UENAKA と書かれた、縦書き・二段組みの、10×15 センチ大の実 験ノート(原物は西宮市名塩の教行寺に保管)の走り書き記載は、 誠に臨場感に溢れている。この実験ノートの存在は上中啓三が生 前意識的に伏せていたが、その没後、遺族から昭和40年に科学 史家の山下愛子氏に手渡され、同氏によってアドレナリン研究資 料としてアドレナリン発見 100 年目の2000年(平成9年)に紹介さ れた。 以下は、アドレナリンの結晶化に成功した前後の下りである。 7 月 20 日: ※高峯博士パークデヴィス社紐育支店より腎上腺・水製エキスを携え帰り、余に主成分々離の予試験を 命ぜられる。 余は彼等(エーベル教授、ヒュルト博士)の研究また遺漏なかりしとは信ずる能わず。ついに前掲試 験を試みるに到りしが、果して彼等が明示したるが如くアルカリ性となしたるエキスはアーミン様臭気 を放つの外異状を呈せず。 8 月 4 日: 一夜の後、アルカリ性となしたる液中に結晶を簇生(そうせい)せり。これを濾紙に取り水にて洗滌し て乾燥するに、かすかに褐色を帯びたる結晶状粉末となれり。水、アルコール等には新晶体は不溶 にして、稀硫酸その他の酸に頗る溶け易し。 塩化第二鉄には特異の緑色を呈す。(註:ヴルピアン反応) 7
  • 8. 8 月 5 日: 新晶体は従来研究者が腺内主成分を分離し得ざりしと雖も、その化学的反応によりて主成分の特徴 を予示したる処と符号するを以て、いよいよ主成分分離は我ラボラトリーに於て成功したるを確信す るに至れり。 8 月 13 日: アンモニアにてアルカリ性となすに、たちまちにして白色美麗の針状結晶は析出す。 8 月 21 日: 余の実験の証する限界内にては、新晶体はエーベル教授のエピネフリンとは異なれるや明らけし。 明治調スタイルで、アンモニアを安門、エーテルを依的留、アルコールを亜留古保留などと記載 してあるので多尐わかりづらいが、アドレナリンを結晶化したのはまぎれもなく、弱冠24歳の上中啓 三であったことが読み取れる。 高峰譲吉の評価 アドレナリン(adrenalin:高峰は末尾に e を付けない)の結晶化に成功した翌年 1901 年の高峰博 士の学会活動は凄まじい。1 月下旬には、New York の Society of the Chemical Industry で結晶化 の成功を発表した(J Soc Chem Indust 20: 746, 1901(抄録))。4 月 27 日には、何と、Abel の本拠 地である Baltimore の The Johns Hopkins Hospital University で口演した。6 月 4-7 日には、 Minneapolis の 52nd Annual Meeting of the American Med Assoc で口演した。ついで、9 月 16-21 日には St. Louis の The American Parmaceutical Assoc で、10 月 15 日には、Philadelphia の The College of Pharmacy において発表した(Philadel Med J 7: 819, 1902 (抄録))。さらに、12 月 3 日 には、英国 Edinburgh の Meeting of Medical Men of the School of Medicine において発表した (Scotish Med Surg J 10: 131-138, 1902)。12 月 14 日には、London の The Physiological Society において代理報告させた(J Physiol 27; Proc Phisiol Soc 29-30, 1902 (抄録))。 以上の発表は欧米の学界に大きな衝撃を与えると同時に、称賛を受けた。汽車と船しか移動手 段がないこの時代に 1 年の間にこれだけの都市を精力的に移動し、成果を学会発表したということ は、余程の手応えを感じていたからに相違ない。もちろん、米国と英国でアドレナリン製造に関する 特許を申請した。 高峰博士は、7回に及ぶ学会講演で次のように述べた。「昨年の夏、私は活性物質たる塩基を 安定な結晶として抽出することに成功したので紹介したい。私は、この分野において決して先駆者 ではないが、従来の研究者は誰も活性成分を結晶として取り出していないし、彼らの間で激しい論 争が続いていることを承知している。私は、自分が抽出した活性物質をアドレナリンと命名した」パ ーク・デービス社は、早速、ウシの副腎 240Kg から 200g のアドレナリンを精製し、その結晶の 1,000 倍希釈液を作って全米の病院で臨床試験を行った。その結果は推して知るべしである。1903 年に はアドレナリンは Adrenalin (Takamine.)としてパーク・デービス社は全世界で発売開始した(日本で 8
  • 9. は三共の独占販売)が、その 2 年後には日露戦争に赴いた帝国海軍病院船の西京丸・神戸丸に . 規定外の医薬品として「アドリナリン」が積み込まれていた。 アドレナリンのヒットを目の当たりにして、実験中の 事故で片目の視力と片腕の自由を失った Abel は地 団駄を踏んで悔しがっていたに相違ない。ところが、 アドレナリンの精製と結晶化成功の歴史は、高峰博士 よりも十数年長生きした Abel によって完全にゆがめら れてしまった。高峰の死後(1922)、アドレナリンの特許 権 も 商 標 も 無 効 に な った こ と を確 認 した Abel は Science の回想論文 (66: 307-319, 337-346, 1927)に おいて「アドレナリンはエピネフリンの盗作であるとす る高峰盗作説」を主張した。それが、高峰を「クレバー な剽窃者」とこき下ろしたミシガン大学・生理学教授の H.W. Davenport をはじめ米国の研究者とその影響を 受けた日本の研究者と臨床医に受け入られ、高峰・ 上中の業績に暗い影を落とした。そのために、ヨーロ ッパでは高峰博士のプライオリティーを尊重し当初からアドレナリンと呼称されてきたのに、なぜか、 米国とそれに追随する日本では、アドレナリンの正式呼称は用いられず、Abel が提唱したエピネフ リンの呼称が用いられてきた。結晶化では実質上敗北した Abel が、優先権を主張しせめて名称の みでもこの世に残そうとこだわったからであろう。副腎エキスをエピネフリンと呼ぶのが妥当ではな いことは今日多くの人が認めつつあり、アドレナリンの呼称が国際的に普及している。医学会の大 御所である Abel に遠慮して、永年に亘り封印されてきたアドレナリン発見の真相は、著者が英文論 文として右のジャーナルに報告した。 高峰譲吉のベンチャー成功の秘訣は5点ほど上げられる。1)欧米の技術と日本の伝統とをミック スして、和洋折衷で Something NEW を作った。2)研究論文よりは特許と契約書とを重視するベン チャー起業家の色彩が強く、かせいだパテント料を次の研究に充てた。1900 年、米国に渡った野 口英世の最初の月給が 50 ドルの時代に、パーク・デービス社からのタカ・ジアスターゼのパテント 料が毎年 12,000 ドルで、コンサルタント料は年額で 3,600 ドルであった。3)研究をするに際しては、 必ずモノを作る事にこだわり、学術論文のレベルやスタイルには頓着しない。研究開発する際には、 4)必ず、有力なサポーターを傍に置く。たとえば、元麹改良には技師の肥田密三、ウイスキー造り には杜氏の藤木幸助、そして、アドレナリン結晶化には上中啓三である。その時々の目的に応じ、 実に巧妙な人選を行っている。そして、5)最大のサポーターは、12 歳年下の米国人妻キャロライン であった。この女性がいなければ、1 世紀以上も前にタカ・ジアスターゼもアドレナリンも誕生してい ないはずである。キャロラインは譲吉を日本から米国へ連れ出し、株で一儲けをした自分の母メアリ ー・ヒッチをしてウイスキー造りのスポンサーとせしめ、家内仕事で譲吉の不遇時代を支えた。肝臓 9
  • 10. 病の譲吉を、リスクを覚悟で列車を止めてシカゴの病院へ搬送し、開腹手術を受けさせるほど肝っ 玉がすわった妻君である。しかも、博士の没後 23 歳年下の牧場主と再婚し、譲吉の孫二人を育て つつ 30 年連れ添った。譲吉と共にニューヨーク・ウッドローン墓地に眠るが、このようなスーパー・レ ディーを妻に迎えたのも、譲吉の才能の一つであったに違いない。このセミトリーの案内板には、 高峰譲吉は「近代バイオテクノロジーの父(Father of modern biotechnology)」と記されている。 高峰・上中両博士のアドレナリン結晶化の70年後の 1970 年に、スウェーデンの U.S. von Euler は、メチル基側鎖を欠くアドレナリン、すなわちノルアドレナリンが神経伝達物質の一つであることを 発見して、ノーベル医学生理学賞を受けた。これは、70年前の高峰の業績自身がまぎれもなくノ .. ーベル賞に価していたこと、アドレナリンの研究が発酵酵素学や内分泌学だけではなく、今日、神 .. 経科学分野にまで波及していることを意味する。アドレナリンを分泌する副腎髄質細胞がニューロ ンに最も近い内分泌型パラニューロンであることは、今日、研究者の常識となっている。高峰・上中 両博士がベンチャーに走らず副腎に関する基礎研究を続けていれば、さらなる大発見も出来たか も知れない。 最後に、著明なジャーナリストであると同時に教育者でもあった John H. Finley 博士による高峰 博士追悼の詩を紹介したい。 Time will dim the memory of his face, but it will only multiply his service to mankind, for wherever the substances of his discovery are used to assist a surgeon or physician, there will Dr. Takamine be present. ‘Born Samurai, a Far East Knight, He yielded his two swords to fight, With science’ weapons mans’ real foes, To lengthen life and stanch it woes.’ by John H. Finley 10
  • 11. 参考文献 1) Takamine J. : Adrenalin, the active principle of the suprarenal glands, and its mode of preparation. American J Pharmacy, 73:523-531, 1901 2) Kawakami K.K. : Jokichi Takamine, A record of his American achievements. 1-74pp. William Edwin Rudge, New York, 1928 3) 都築洋次郎、山下愛子 : アドレナリンの発見史—本邦科学者の独創性にかんする化学史的研究 科学史研究 47:1-8, 1958 4) Miles Inc. (Preface by Bennett) J.W. : TAKAMINE: Documents from the dawn of industrial biotechnology. 1-49, 1988 5) 佐野 豊 アドレナリン発見への道程 ミクロスコピア 6: 194-200, 1989 6) 菅野富夫 アドレナリン発見 100 年の光と陰 —高峰譲吉と上中啓三の共同研究に学ぶー ミクロ スコピア 17:98-105、2000 7) 菅野富夫 アドレナリンとエピネフリン:
最初のホルモン結晶化競争
-アドレナリン発見から 100 年 -
、現代化学 357:14-20, 2000 8) 飯沼和正・菅野富夫 高峰譲吉の生涯 アドレナリン発見の真実 1-347 頁、朝日新聞社 2000 年 9) アグネス・デ・ミル著、山下愛子訳 —アドレナリン発見 100 年記念— 高峰譲吉伝 松楓殿の回想 1-303 ページ 雄松堂出版 2000 年 10) 佐野 豊 国際組織細胞学会主催 「高峰譲吉のアドレナリン発見百年記念シンポジウム」講演 — 副腎の宝探し:百年前の熾烈な競争— 2000 年 6 月 24 日 金沢 11) 山嶋哲盛 : 日本科学の先駆者 高峰譲吉 岩波ジュニア新書 375 1-184 頁、岩波書店 2001 年 12) Aiko Yamashita. : Research note on adrenaline by Keizo UENAKA in 1900. Biomed Res, 23: 1-10, 2002 13) Yamashima T. : Jokichi Takamine (1854-1922), the samurai chemist, and his work on adrenalin. J Med Biogr. 11:95-102, 2003. お断り:本論文は、杏林書院発行の「体育の科学 59(8):518-527, 2009」に発表した。 11